シンガポールのビジネス情報サイト AsiaXビジネスTOP「2030年までに食料自給率30%」が困難である2つの理由

ビジネスインタビュー

2020年9月11日

「2030年までに食料自給率30%」が困難である2つの理由

【Pacific Agriscience(パシフィック・アグリサイエンス)創業者・社長】Ching Seng Liew(C S Liew /以下CS)氏

 在星歴および農薬・肥料業界経験41年、シンガポールで21年にわたりジェネリック農薬や特殊肥料貿易会社を経営するChing Seng Liew(通称CS:シーエス)氏。中国・インドの持つ可能性にいち早く着目し起業。最高年間売上高3,000万米ドル(約32億円)を記録する会社に成長させた、シンガポール農薬貿易業界の重鎮だ。CSは、昨年シンガポール政府が国家戦略構想として発表した「30-by-30 Vision」を「野心的すぎる」と語る。これは、2030年までに栄養必要量の30%を現地生産による農業食品としその能力開発にも注力する戦略目標だ。なぜ難しいのか?その理由と、彼の起業ストーリーを取材した。
 

 

起業を決意させた妻の言葉と
心に秘めた情熱

まず、1998年に会社を立ち上げるまでの経緯を教えてください。

 1979年に米アイオワ州立大学を卒業した後、マレーシアで、スイスに本拠地を置く農薬業界世界最大手の企業の一つ「Syngenta(シンジェンタ、旧Ciba-Geigy)」でキャリアをスタートしました。それから1980年5月に渡星すると、アジア太平洋地域担当として米系の会社に11年半勤務しました。そのころは、日本も担当国だったので、年に3、4回は出張で行きました。
 
 次にオーストラリア系の会社「Nufarm(ヌファーム)」でアジア太平洋地域担当としてキャリアを積んでいくうちに、自分の考えが上司や会社の目指す方向と一致しないことに、違和感を覚えるようになったのです。例えば、中国やインドの成長の可能性を感じたので、すでにジェネリック害虫駆除剤を生産していた両国の製造会社と組んで、(ジェネリックでなくオリジナル品を扱う)大手に対抗するアイデアを思いつきましたが、この豪系会社の方針とは合いませんでした。だったら自分でやればいい、と会社設立を思いついたのです。
 
 「これから一年、もし無収入だったとしても今の生活水準を落とさず暮らせる?」ある日、私は妻に勇気を持って聞きました。「貯金があるからなんとか、カップラーメンだけを食べ続ける生活にはならないと思うよ」と妻の頼もしい返事を聞くやいなや、会社設立に踏み切りました。会社名は、「Pacific Agriscience(パシフィック・アグリサイエンス)」。白紙のノートに社名のアイデアを出し合って、妻と一緒に頭を悩ませたことが懐かしく思い出されます。

起業に踏み切った一番のモチベーションは?

 「自分の運命を自分で思ったように描く」ことへの情熱です。私の場合、「会社と考えが合わないならば、自分が正しいと思うことを実行する」ということでした。

設立後はやはり苦労されましたか?

 それが、設立して2週間で最初の受注をもらったので、むしろ拍子抜けしました。それからは、トントン拍子。私が会社設立したことを知った周囲の人達が、次々とお客様を紹介してくれたのです。その結果2008年までの間で最高年間売上高3,000万米ドル(約32億円)を達成しましたが、売上に貢献した85%は紹介によるお客様だったことを記憶しています。残りの15%は、インターネットで検索して私の会社を知ったお客様でした。意外にも前職でお付き合いのあった顧客は、中国、インドからのジェネリック農薬は直接買い付けられるという理由で、「Pacific Agriscience」のお客様にはなりませんでした。でも、お客様になってくれた人のほとんどが紹介だったことには勇気付けられました。私の評判が悪かったら、紹介はしてもらえませんから。

創業当時から現在までで、ビジネスモデルに変化はありましたか?

 創業当初のメイン事業だったジェネリック農薬の貿易事業は、この10年で縮小しました。理由は、より多くのお客様がインド、中国から直接買い付けるようになったためです。そのため、ニッチ市場を狙った特別商品を扱うビジネスモデルへの変革を余儀なくされました。例えば、土の肥料でなく葉そのものにスプレーする液体肥料。土の肥料はコモディティ(品質での差別化が難しい商品)ですが、後者は違う。市場は小さいながら、コモディティよりも高価なマージンを見込めます。
 
 2つ目が、創業当初にはなかった事業なのですが、この業界40年での経験とグローバルネットワークを生かしたM&A(合併と買収)仲介サービスにも今は力を入れています。特に、3年半前に成立させた案件がかなり大掛かりなものでした。年間売上高50億ユーロ(2017年平均で6,250億円)のフランスの巨大農業協同組合「InVivo」と、ブラジルの巨大農業組合「CCAB Agro」を引き合わせました。両社の企業理念が似ているため、ニーズが一致すると感じたのです。すると、一目惚れのように「InVivo」による買収の話がまとまりました。

農薬業界全体では、過去20年でどのような変化がありましたか?

 1980年代からM&Aが多く発生していました。80年当時は、6、7社の日系企業も含めて新製品開発を行う同業社が世界に35社ほどあったことを覚えています。大多数は欧米系の会社でした。しかしM&Aが進んだ近年は、農薬・種子セグメントのトッププレイヤーとその他の開きが大きくなり「Bayer AG(バイエル)」「ChemChina(ケムチャイナ)・Syngenta(シンジェンタ)+ADAMA(アダマ)」「Corteva(コルテバ、DOW+DuPont、2019年6月に3社分割)」「BASF(ベーアーエスエフ)」「FMC(エフエムシー)」の上位5社が市場約70%のシェアを占める寡占的な市場となっています。
 

スリランカのディストリビューターにパイナップルの特殊葉面肥料のプロモーションをするため訪問

 

野心的な目標と
乗り越えなければいけない課題

シンガポール政府がフード・セキュリティ(食の安全保障)のため2019年に発表した「30-by-30 Vision」がかなり野心的だとおっしゃっていました。

 はい。国家戦略構想「30-by-30 Vision」は2030年までに栄養必要量の30%を現地生産による農業食品および代替肉・プロテインとし、室内農業などその能力も開発することです。しかしながらこれは、大変野心的な目標だと私は考えています。現在自給率10%以下のところを今後10年で30%まで引き上げるには、シンガポールに活用できる土地が少ない。そして、次に挙げる課題もあるために、時間的にも無理があります。
 
 第一の課題は、価格設定についてです。シンガポールの駐在員世帯は「Cold Storage」、日本人なら特に「DON DON DONKI SINGAPORE」「MEIDI-YA」を利用することが多いと思いますが、「NTUC FairPrice」に比べると価格設定は割高です。「NTUC FairPrice」は60%の市場シェアを誇る、ローカル向けの安価な政府系の最大手スーパーマーケットです。ローカルの低所得層でも輸入食材に手が届くよう、価格設定が抑えられています。「NTUC FairPrice」で冷蔵棚に陳列されていない野菜を見たことがありますか?あれがマレーシア産のもっとも安価なきゅうりや、空芯菜です。一方でオーストラリア産やニュージーランド産の割高な輸入野菜は冷蔵棚に陳列されていますよね。
 
 ここで、ギャップが生じています。ローカル生産の野菜も、その運用コストの高さから、どうしてもマレーシアや中国、インドネシア産の野菜と比較して割高の価格設定にならざるを得ない。それがスーパーで安価な野菜や、輸入野菜の隣に並ぶことになります。「NTUC FairPrice」にマレーシア産の安い野菜を求めて買い物に来る客が多い中で、かなりニッチ市場を狙っていることになります。このようなカニバリゼーション(自社内や店舗内で製品同士が競合し売上を奪い合うこと)について慎重な協議が必要だと思います。政府がローカル産野菜を助成しない限りは、このジレンマから抜け出せません。政府系の「NTUC FairPrice」がなるべく安価で食品を売りたい中で、同じように政府のシンガポール食品庁(Singapore Food Agency:SFA)が自給率30%達成のために割高のローカル産農業食品を売りたいとなると、目的が衝突してしまいます。これはシンガポール航空とチャンギ国際空港の関係に似ています。競合他社を路線に参入させすぎているチャンギ国際空港と、自社路線を守りたいシンガポール航空との関係ですね。
 
 2つ目の課題は、食の安全。現在政府はHDBの自宅で野菜を栽培できるように、無料で種の配布も行っていますが、これも「30-by-30 Vision」達成を非現実的にしている要因だと思います。例えば自宅できゅうりを栽培したとしましょう。それを毎日食べますか?人間は、手元にあるものを食べるのではなく食べたいものを食べるものです。そして、収穫したきゅうりを、近所の人に配るくらいならよいでしょうが、売りたい場合はどうでしょうか。安全性が問題になってきます。シンガポールでは、輸入食材は農薬残留量が厳格にチェックされ、基準以上のものは廃棄され、市場に出回ることはありません。しかし、個人で栽培した野菜の安全性をどのようにチェックするのでしょうか?フード・セキュリティを重視したばかりに、フード・セーフティの課題が置き去りにされています。
 
 「30-by-30 Vision」には室内農業、バーティカルファームやフィッシュ・ファーム活用計画があることも認識しています。技術的に可能なことですが、例えば室内農業で作ることができる野菜は葉物中心と限定的です。その場合はマレーシア産などの安価野菜との価格設定に注意が必要となります。政府の助成有無が重要となってきます。さらに代替肉については、消費者がどこまで受け入れるかは、別の問題です。
 

コロナ禍から見えてきた課題と
これからの目標

将来またパンデミックが起きた場合にどのような対策が有効だと考えていますか?

  今回のコロナ禍において、サーキットブレーカー中にスーパーマーケットで買い占め騒動が起き、新鮮な野菜が売り切れる状態が続きましたね。一方で農家には野菜が余り、必要な所に十分に流通されない時期があった。バランスが崩れていたんです。だからといって、自国で農業を促進することには賛成できません。緊急時には農産物巨大輸出国であり、フード・セーフティの面でも安全基準が確立されているオーストラリア政府やニュージーランド政府とシンガポール政府間で一定量の年間輸入量確保に合意する。また農家レベルでも契約を交わして、毎年特定の産物の一定の購入量確保に合意すること。この方法が効率的だと思います。

シンガポールのローカルファームはどのようなところがありますか?

  「Koh Fak Technology Farm」やシンガポール政府系ファンドのテマセクホールディングスが投資した「Sky Greens」が有名ですね。パナソニックによるインドア・ファーミングプロジェクトや水耕農場など、2019年時点で220もあります。しかし、投資へのリターンや収益性が悪く、クローズした会社もあります。課題は、生産コスト。収益性を考えるなら、例えば「Sky Greens」では、通常はオーストラリアなどから輸入する温帯野菜を育てるのがいいでしょう。しかし、やはりニッチ市場を狙うことになります。一般的かつ需要の高い葉物野菜を育てるなら、マレーシア産などの安価野菜との価格競争になります。何を育てどのような価格をつけるかを、よく検討する必要があります。

ビジネスにおいてのゴールはありますか?

  ビジネスライフも集大成の段階。40年の間に信頼関係を築き上げた世界中のネットワークを基盤に、M&A事業を加速させたいと思います。M&Aは、人や会社が必要としていることを見抜いてマッチングする、私の経験と性格を活かせる天職。この業界で私の長年の経験から来る知見を社会に還元することで、架け橋的な役目を果たせたら幸せです。

1日の中で一番幸せな時間は?

 もちろんガーデニングです。毎日数時間かけて、自分で庭の植物を丁寧に世話する時間が生きがいです。

 

広大な庭・プール付き大邸宅に住むCS氏は、トロピカル・ガーデンをテーマに植物を植え育てることが至福の時間

 
 参照:30-by-30 Vision Ministry of Sustainability & Environment
 

◆プロフィール

Ching Seng Liew (C S Liew)
Pacific Agriscience(パシフィック・アグリサイエンス)創業者・社長

 
 シンガポールを拠点とするジェネリック農薬、特殊肥料貿易およびM&A事業の会社を経営。米アイオワ州立大学で農学・作物栽培学と害虫管理を同時専攻し1979年に卒業。Ciba-Geigyで1年間勤務した後、Uniroyal Chemicalで11年間、市場調査から登録を上級管理職レベルで担当しグローバルに活躍。その後、Nufarmで7年間地域統括担当の後、1999年に自社設立し、ジェネリック農薬や特殊肥料取引事業を開始。キャリアを通じて、独自の農薬の他に、葉面肥料、微量栄養素、生物刺激物質の市場開発、販売プロモーションに深く関わる。また、ディストリビューターを管理し、製品のトレーニングや、マーケティング計画や戦略開発と戦略立案に携わった。過去4年間は、M&A事業に力を入れている。

(取材・文/舞スーリ)

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