シンガポールのビジネス情報サイト AsiaX熱帯綺羅TOPシンガポールを駆け抜けた「革命の父」と「建国の母」孫文と梅屋庄吉

熱帯綺羅

2011年9月5日

シンガポールを駆け抜けた「革命の父」と「建国の母」孫文と梅屋庄吉

梅屋庄吉と孫文の出会い

明治元(1869)年11月26日、梅屋庄吉は長崎で生まれました。生後まもなく、貿易業と精米所を営み、土佐商会の家主でもあった梅屋家に養子として入りました。腕白者で知られ、14歳の時には自分の家の船にこっそり乗り込んで上海へ渡航。そこで、欧米人から屈辱的な扱いを受け、貧しい生活を強いられている中国人を目の当たりにし、同じ東洋人として強く憤りを感じました。

10代後半から商才を発揮し莫大な利益を上げたものの、20代半ばで米相場に失敗、中国へ逃れ、さらにシンガポールへ行って、そこで写真技術を習得。その後香港で写真館を経営し、持ち前の商才で繁盛させます。広州蜂起の約1年前、1895年1月5日に孫文が医学校時代からの恩師も常連だった庄吉の写真館を訪問。祖国・中国に対する危機感と清朝打倒のための革命の意思を打ち明け、活動資金の援助を求めます。孫文に共感した庄吉は援助を約束、以後生涯を通じて孫文の盟友であり続け、孫文の革命の理想を物心両面で支え続けました。

アジア人のための革命運動

今年7月下旬、孫文を記念した公園が一部完成した。奥の赤い屋根が「孫中山南洋記念館」で現在改装中(2011年10月再オープン予定)。中山は孫文が日本亡命中に使い始めた号で、中国や香港、台湾では孫中山として知られる。

孫文らの革命運動を支えるべく、庄吉は武器の入手先の裏情報などを的確に集めて調達、可能な限り資金も提供しました。孫文も世界中を駆け回って、各地の華僑を中心に革命運動の賛同者を募り、資金集めに奔走。1900年にはシンガポールも訪れています。清朝と外交関係のある植民地政府によって捕らえられた支援者の一人・宮崎滔天を救出するためでした。以来1911年12月に辛亥革命を受けてアメリカからの帰国の途上に立ち寄るまで計8回来星しています。1906年以降の来星時に孫文が滞在していた屋敷・晩晴園は、バレスティアの裏通りに「孫中山南洋記念館」として今も残っています。

孫文が2度目の来星を果たした1905年6月頃は、庄吉もシンガポールに滞在していました。前年5月に香港で営んでいた写真館が反乱軍の拠点であると密告され、逃れて来たのです。その際偶然荷物に入っていた映写機と映画フィルム4巻で映画興行を思いつき、当地で孫文を支援していた華僑達の手助けもあって庄吉の興行は大当たり。莫大な資金を手に日本へ帰国し、東京で映画会社を設立しました。後に日本活動写真株式会社(日活)となった会社でした。映画事業で得た利益の多くは、孫文と日中の同志達の活動資金となりました。

1911年10月10日夜、湖北省武昌での武装蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、孫文は1912年1月に南京に成立した中華民国の臨時大総統に就任。しかしその後、総統の職を継いだ袁世凱と対立して命を狙われる身となり、1913年に再び日本へ亡命。庄吉が孫文に住まいを提供し、精神的にも経済的にも支え続けました。

1925年、孫文は志半ばにして北京で客死。庄吉は、孫文の遺志を形にして残そうと大きな銅像4基を作成して南京、広州など孫文ゆかりの地へ寄贈しました。1931年に満州事変が勃発、悪化する日中関係を憂慮した庄吉は、蒋介石らとも連絡を取りながら日中友好のために尽力します。しかし、1934年、病を押して外務大臣との会見に向かう途中の駅で倒れ、帰らぬ人となりました。

「革命の父」と呼ばれた孫文と、その孫文に「建国の母」と呼ばれた梅屋庄吉がかつて過ごしたシンガポール。アジア全体の幸福と平和を願い、革命運動を支えた日中の人々がこの地でも手を携えていたことは、もっと知られて良さそうです。

p4 (1)

今年7月下旬、孫文を記念した公園が一部完成した。奥の赤い屋根が「孫中山南洋記念館」で現在改装中(2011年10月再オープン予定)。中山は孫文が日本亡命中に使い始めた号で、中国や香港、台湾では孫中山として知られる。
12 Tai Gin Road 327874

文= 石橋雪江

この記事は、シンガポールの日本語フリーペーパー「AsiaX Vol.196(2011年09月05日発行)」に掲載されたものです。

おすすめ・関連記事

シンガポールのビジネス情報サイト AsiaX熱帯綺羅TOPシンガポールを駆け抜けた「革命の父」と「建国の母」孫文と梅屋庄吉