2016年10月5日
【アジア大洋州住友商事会社 取締役COO】岡田 卓也さん
人口激増が見込まれる東南アジア、ASEANを視野に入れたプロジェクトを統括
2019年に創立100周年を迎える住友商事。世界67ヵ国、135ヵ所におよぶ拠点をもつ同社グループの中で、マレーシアでの肥料事業、インドネシアでの発電プロジェクトなど東南アジアで様々なプロジェクトを展開しているのがシンガポールにオフィスを置くアジア大洋州住友商事会社である。香港、中国、シンガポールとアジアの第一線に長く身を置いてきた同社の取締役COO・岡田 卓也氏に、統括する東南アジア市場の展望などについて伺った。
目次
- 2年前に1991年以来となる2度目の赴任が決定し来星され、約25年間のシンガポールの変貌ぶりに驚かれていると聞いています。どのような点が大きく変わったという印象をお持ちなのか教えてください。
- 住友商事グループとしての拠点ネットワークは 世界67ヵ国、135ヵ所にもおよびます。アジア大洋州住友商事会社の位置づけと、現在取り組んでいるプロジェクトについて教えてください。
- 今後のシンガポール経済の見通しなどについて、個人的なご意見をお聞かせください。
- 「人間力がグローバル化を推進させる」が御社の人材育成のモットーでもあります。アジア大洋州住友商事取締役COOとして人材マネジメントで心がけている点について教えてください。
- プライベートについて、少しお聞かせください。
- 最後に、創立100周年を迎えるにあたり、御社では「Be the Best, Be the One」を掲げています。ここに込められた意味とアジア大洋州住友商事としての今後の取り組みを教えてください。
2年前に1991年以来となる2度目の赴任が決定し来星され、約25年間のシンガポールの変貌ぶりに驚かれていると聞いています。どのような点が大きく変わったという印象をお持ちなのか教えてください。
まず、2007年に1人あたりのGDP(国内総生産)が日本を追い抜いたデータひとつ見ても、経済成長のスピードに驚いています。結果、よくクローズアップされがちな富裕層だけでなく、中流層が確実に増加していると感じますね。
例えば最初に赴任した1990年代前半と比べると、車を所有する中流層の人々が増えていてシェアリングもできるようになっています。それと、今は様々な国籍の方を寿司屋などの本格的な高級和食店で見かけるようになりましたが、当時は日本人が主要顧客でした。裏を返せば、日本人のプレゼンスが以前ほど高くないということなのかもしれません。
現在、シンガポールで妻とペットとの3人暮らしなのですが、早朝に犬の散歩をする人もよく見かけます。動物病院やグルーミング、ペットホテルもある。こうした街中のさりげない風景は、シンガポールの豊かさを象徴するひとコマだと実感しています。
住友商事グループとしての拠点ネットワークは 世界67ヵ国、135ヵ所にもおよびます。アジア大洋州住友商事会社の位置づけと、現在取り組んでいるプロジェクトについて教えてください。
海外の住友商事グループは大きく4つのブロックに分かれています。北米、南米を統括する米州ブロック、ヨーロッパや中東をカバーする欧阿中東CISブロック、中国と韓国、台湾をみる東アジアブロック、そしてシンガポールを含む東南アジア、オセアニアを担当するアジア太平洋ブロックです。そのアジア太平洋ブロックを管轄するのがアジア大洋州住友商事会社です。私はその中のシンガポールユニットを統括しています。
アジア太平洋域内で取り組むプロジェクトのひとつに、中国、マレーシア、豪州などにおける肥料の製造と販売事業があります。末端需要家である農家やプランテーションへの販売を中心に事業を展開していますが、マレーシアに参入したのは1993年。年々拡充し、2020年までには新工場建設などを通じて更に売上高を増やす計画です。人口増加が確実視されるASEANの中で食糧需要の激増に応えるための肥料事業の拡大は今後もぜひ取り組んでいきたい分野のひとつですね。
今後のシンガポール経済の見通しなどについて、個人的なご意見をお聞かせください。
2015年通年の経済成長率が2009年以来、2%の低成長を記録したというデータもありますが、それだけでシンガポールの将来を語ることはできません。天然ガス、原油といった資源がほとんどなく、人材教育に注力した賜物である優秀な頭脳をどうやってビジネスに合致させていくか、そこに注力している状況はこの国も日本も同じです。何よりシンガポールには多様な文化を受け入れる下地がある。この国の成長をドライブするのは教育・多様性といった強みやコア・コンピタンス(総合力)を、人口6億人の市場となるASEAN全体の中でどう生かしていくかでしょうね。つまり、いかに周辺国へビジネスの機会を求めていくかが大事だと思います。
かつて香港にも赴任した経験があるのですが、一国二制度といった違いこそあれ、進出する企業にとっては外の世界(香港の場合は中国本土)へ進出するゲートウェイであるという点で、シンガポールと香港はよく似ていると思います。
「人間力がグローバル化を推進させる」が御社の人材育成のモットーでもあります。アジア大洋州住友商事取締役COOとして人材マネジメントで心がけている点について教えてください。
住友グループの人材育成のガイドラインに「入社後10年までに3つの職務を経験し、うちひとつは海外勤務とする」というのがあります。私も海外での経験を積みたいという強い衝動に駆られ、当社への入社を決めました。ところがそういう決意で入社する人材がいつの時代も集まるとは限りません。人に始まり人に終わる商社にとって人材の確保・マネジメントは常に重要な課題です。私自身、アジア太平洋オセアニアブロックをつかさどる立場の一人として心がけているのは、まず「障子を開けろ、外は広い」と自他に問い続けることでしょうか。そして、自分の意見も主張しながら、相手の多様性も受けとめる。私はそれを「隣にいる人間が何をやっているのかをよく理解すること」だと部下に伝えています。
また当社に限らず、日本本社から送り出されシンガポールに駐在するビジネスマンは、自分があるプロジェクトを実現したいと思っても、現場にいるからこそ感じられる自分の「肌感覚」を出先のスタッフはもちろん本社と共有していなければ先に進みません。それにはやはり、日頃からの丁寧なコミュニケーションが不可欠なのです。信頼関係のない人間の「肌感覚」など誰も信用してくれませんから。結局は、当社が掲げる「多様な価値観を認めつつ自らの考えを持ち、既存の枠組みにとらわれずに主体的に行動できる人材」を育成すること、また自らもそうあろうとする努力を怠らないということに尽きるのだと思います。
プライベートについて、少しお聞かせください。
学生時代はバトミントンの選手だったこともあり、今もスポーツは好きですね。リオオリンピックでの日本選手の活躍には本当に感動しました。ゴルフもよくプレーしますが、純粋な楽しみはやはり愛犬と遊ぶことでしょうか。東京都府中市のペットショップで自分と同じ誕生日のミニチュア・シュナウザー(メス)に運命的なものを感じ、家人に反対されながらもすぐに連れて帰りました。この子が毎日の元気の源になってくれていますね。
最後に、創立100周年を迎えるにあたり、御社では「Be the Best, Be the One」を掲げています。ここに込められた意味とアジア大洋州住友商事としての今後の取り組みを教えてください。
和訳をすれば、「あらゆる面でベストな会社となり、かけがえのない存在になる」ということです。よく「住友商事らしさ」という表現を当社では使うのですが、その原点は住友家初代・住友政友という人物が説いた「信用を重んじ、浮利を追うべからず」といった心得にあります。1585年に福井県で生まれた政友は涅槃宗(ねはんしゅう)の僧侶で書物や薬の店を営む商人になった人物ですが、400年以上の時を経てもこの精神は受け継がれています。「つねに変化を先取りして新たな価値を生み出し、広く社会に貢献する存在であれ」という当社の経営理念が、「Be the Best, Be the One」の根底にあります。
実はそうした取り組みの一つとして、東南アジア各国への感謝の意をこめ、1991年から「ジャパンアワー」と題した日本固有の文化や生活を紹介する番組を放映しています。他社と協力し、「チャンネル・ニュースアジア」(シンガポールのニュース専門TV局)経由で放送しており、視聴者数はアジア・オセアニアを中心に27の国・地域で約5,900万世帯にのぼる長寿番組です。現在はテレビ東京で人気の旅番組「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」(土曜19時半~)を放映中です。大きなプロジェクトだけでなく、こうした取り組みを通じてささやかながらもアジアに対する日本の親善大使の役目も果たしていけたらいいですね。
岡田 卓也(おかだ たくや)氏
住友商事株式会社 アジア大洋州住友商事会社 取締役COO シンガポールユニット長 アジア大洋州資源・化学品ユニット長
1960年生まれ。1982年住友商事株式会社入社以来、化学品ビジネスを主に担当。1991年から1997年まで初めてのシンガポール赴任。2006年から5年間、香港駐在を経験。香港をベースに中国全土での化学品ビジネスの事業展開と撤退事業に従事する。2014年に二度目のシンガポール赴任。急成長の裏側にあるシンガポールの高齢化を目の当たりにし、独居老人と映画に行くなどのボランティア活動を会社として実施。
この記事は、シンガポールの日本語フリーペーパー「AsiaX Vol.311(2016年10月3日発行)」に掲載されたものです(取材・写真:宮崎 千裕)