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スペシャルインタビュー

2014年9月15日

「このあたりの者でござる」 ―狂言の英智をジャンルや国境を越えて発信

狂言師野村萬斎(のむら まんさい)

スクリーンショット 2015-06-30 11.19.44「シンガポール国際芸術祭(Singapore International Festival of Arts)2014」の注目イベントとして8月28、29日、狂言師で人間国宝の野村万作と野村萬斎の両氏が、今年7月に再オープンしたばかりのビクトリアコンサートホール&シアターで狂言の舞台を披露した。演目は狂言『棒縛』と奉納のための神事を演じる『三番叟(さんばそう)』の二本立て。劇場にはこの日のために本格的な檜の能舞台が設えられ、両日満席の公演となり好評を博した。これまでニューヨークやパリなど欧米でも数多く公演の機会を持ち、日本を代表する狂言師の1人として伝統芸能を世界に披露している野村萬斎氏に話を聞いた。

―来星公演が実現したご縁について教えてください。

今回の国際芸術祭の芸術監督を務める(俳優で演出家の)オン・ケンセンさんの招きです。昨年、今回と同じ写真家の杉本博さんが舞台美術を担当した『三番叟』をニューヨークのグッゲンハイム美術館で上演した際にお会いしたり、日・ASEAN友好協力40周年記念のシンポジウムで同じくパネラーを務めたりとご縁がありました。それがきっかけとなり、もともと彼は能の方々とも交流があって日本文化の造詣も深いので、話はトントンと進みました。

―海外で狂言を伝えていくことの意義とは何でしょうか。

ひとつは、お互いの文化を意識して、同じである部分と違う部分を認識すること。狂言の演劇性には、人間は生きているとその日常に滑稽な事がある、人間はある意味で皆同じであるというメッセージ、また人間だけで生きているのではなく自然や動物と共存しているといった他者へのまなざしがある。神や自然といった人間以上の存在、森羅万象に対する畏怖があった中世の時代の考え方ですが、現代性と古典性みたいなことが両方バランスよく見られます。普遍的な思想ながら、表現方法は日本の古典に由来する訳で、その特殊性が面白くまた珍しく映る、ひいては日本人のアイデンティティを見る。つまり、共通性とアイデンティティの違いを目の当たりにするのです。それがある種、文化交流の意義。違うものばかりを押し付けることもないし、全く同じだったら見せる必要もないんです。

―例えば、具体的に狂言のどの辺りにそれが現れているのでしょうか。

狂言の演目で最初に発するセリフで「このあたりの者でござる」という言葉に尽きると思いますね。シンガポールに来ても「このあたりの者でござる」と言う。そのセリフの主語は、英語に訳せば「I」なんですが、我々からすれば「We」に近い。お客さんを含めて私たちはこの辺りの者ですよね、という共通理解から始まるという精神は、狂言がいつの時代のどこに暮らす人にも通ずる、普遍的なものを表現してきたことを示す言葉だからです。
能は亡霊が出て来ますが、狂言は常に過去形ではなくて、生きている人間を映す鏡。主人の留守中に盗み酒をするという演目『棒縛』では、道徳的には悪いに決まってるんだけど、ちょっと飲みたい、昼から酒を飲めば気持ちいいよな、という理性とは違う部分にスポットを当てて、皆さんの代りにやってあげるというかね、そういう人間共通のカタルシスに面白みを感じてくれたらと思います。もちろん単に滑稽なだけでなく、芸に裏打ちされた力の抜けた笑い、それは高等技術だと自分は思いますが、そういうところを見て欲しい。

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