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熱帯綺羅

2010年11月15日

シンガポールの街を丘の上から見守る「イスタナ」

「イスタナ」はマレー語で宮殿の意味。シンガポールで「イスタナ」といえば、オーチャードの中心にほど近い大統領公邸です。普段は大きな門扉は閉ざされており、政府要人や関係者のみが出入りを許されています。門のそばにきりっとした表情で立つ守衛が小脇に抱えた自動小銃に目を留めて、ちょっと驚いたような顔をしながら通り過ぎていく観光客の姿もよく見かけられます。

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イスタナの正面。屋根に翻る赤い旗はシンガポール大統領旗。

丘の上に建つ大きな白亜の建物は、シンガポールがイギリスの海峡植民地の一部であった19世紀後半、1867年から約2年の歳月をかけて建設されました。1867年は、それまでイギリス東インド会社のベンガル総督府の管轄であった海峡植民地がイギリス植民地省の管轄に移され、新知事オード卿が派遣された年でした。オード卿は海峡植民地の首都であったシンガポールに滞在、ナツメグ園だった106エーカーあまりの広大な土地を購入し、知事公邸の建設を進めました。当初の計画に基づいて予算獲得が終わった後に、より大きな建物を建てるよう設計に変更が加えられ、しかも費用の見積もりが見直されなかったために資金難に陥り、一時は工事が中断されてしまいました。

しかし1869年、ヴィクトリア女王の次男でもあるエディンバラ公爵がシンガポールを訪れることになり、公爵をお迎えする準備のために追加工事が必要という名目で予算が追加され、無事完成にこぎつけました。

第二次世界大戦中、1943年から45年までの日本軍占領時代にはこの知事公邸も日本軍に接収されました。敷地内に現在もある105mmカノン砲は、日本軍が降伏時に東南アジア連合軍(SEAC)最高司令官ルイス・マウントバッテン卿に差し出したものです。

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色とりどりの花が咲く前庭の植え込み。約40人の庭師が広大な敷地内の手入れを行っている。

 

終戦後シンガポールは再びイギリスの植民地となり、この建物も知事公邸として使用されていましたが、1959年にシンガポールが自治領になったのを機に自治政府が引き継ぎ、「イスタナ」と改称されました。また、自治政府の国家元首(マレー語でYang di-Pertuan Negara)に指名されたユソフ・ビン・イサーク(Yusof bin Ishak)がイスタナを公邸として使用し始めました。1965年8月の独立後、国家元首の肩書きが大統領と改められ、ユソフ国家元首がそのまま初代大統領に就任しました。ユソフ初代大統領の肖像は現在シンガポールの紙幣に描かれており、その顔は国民のみならず外国人にもおなじみです。

ちなみにシンガポールでは実権は首相にあり、大統領は大臣の任命や勲章の授与、外国からの賓客を国家元首として迎えることなどが主な役割です。

1993年にシンガポール初の民選大統領となったオン・テンチョン(王鼎昌、Ong Teng Cheong)第5代大統領の在任中、1996年から1998年にかけてイスタナの大規模な改修が行われました。老朽化で傷みが見られた壁や屋根などの改修に加えて裏側に増築されたスペースにキッチンなどが移され、キッチンがあった場所にはボールルームが新たに設けられました。また、門からイスタナまでのなだらかな傾斜を利用して9ホールのミニ・ゴルフコースも設置されました。

現在のイスタナの主は、1999年に第6代大統領に就任し、2005年8月に再選されて現在2期目を務めるセラパン・ラーマナザン(Sellapan Ramanathan、S. R. Nathan)大統領です。

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ヴィクトリア女王戴冠50周年を祝福して中華系コミュニティから贈られた女王の像。長年、国立博物館の倉庫など外部で保管されていた。1994年にイスタナへ移されることになった際は鼻など数ヵ所が破損していたが、修復後、イスタナを見上げる現在の位置に据えられた。

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イスタナのファサードの左右上部に掲げられたシンガポール大統領の金の紋章。

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