2015年3月2日
最古の公共住宅団地に残る戦争の記憶「ティオンバル防空壕」
白い壁に濃淡のレンガを配し、水平を強調したデザインの低層建築が連なるティオンバル地区。その一角に防空壕が建設されたのは、第二次世界大戦が勃発した1939年のことでした。日本軍のシンガポール侵攻から73年が経った今でも、ティオンバル防空壕には当時の面影が色濃く残されています。
公共住宅の地下に1,600人を収容できる巨大空間

コンクリートむき出しの天井、赤レンガの壁が迷路のように続く薄暗い空間。漂うカビと埃の匂いに、言いようのない息苦しさを感じます。この防空壕が設けられているのは、イギリス植民地時代にSIT(シンガポール改善財団)によって建設された、シンガポールで最も古い公共住宅団地の地下部分です。ユニークなU字型をした、モー・ガン・テラスと呼ばれる公共住宅に造られた防空壕の面積は、実に1,500平方メートル。最大1,600人を収容できる大規模なものでした。
当時、新聞で報道された計画では「グアン・チュアン・ストリートの第78棟(モー・ガン・テラス)は地階から成り……平時には子供たちの屋内の遊び場として使われる。しかし有事の際は防空壕として利用できる」と書かれています。
実際に防空壕として使われたのは、日本軍による空襲が繰り返し行われた1941年12月から1942年2月にかけての約2ヵ月間で、回数もごくわずかでした。
一般市民が住むティオンバルは、そもそも空襲の標的ではありませんでした。しかし、標的とされた鉄道駅や港から近かったためか、少なくとも2度の爆撃を受けた記録があります。「爆弾で水道管が破裂して、水が2階まで吹き上がった」「当時住んでいたモー・ガン・テラスの近くに爆弾が落ちた」という証言が、冊子「TIONG BAHRU HERITAGE WALK」(国家文化遺産庁(NHB)ほか刊)に残されています。
また、子供の頃ティオンバルに住んでいた故・ニコラス・タンさんの証言として、防空壕の本来の入り口は現在と反対側、グアン・チュアン・ストリートに面していたとのこと。空襲警報が鳴ると入り口が開けられ、はしごを使って防空壕へ避難していたことも伝えられています。
この地域の歴史の共有と保護を目的に活動している、「ティオンバル・ヘリテージ・ボランティア」のメンバーの一人、ケルヴィン・アンさんによれば、戦中に防空壕の中で生まれた人もいたのだとか。「ある女性の父親は、1942年1月21日の空襲の際、民間の防衛ボランティアとして召集され、そのまま帰らぬ人となってしまいました。その日の夜中、彼女はこの防空壕の中で誕生したのです。彼女が、数年前にこの防空壕を訪れた際の胸の内は、察するに余りあります」。