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現在と過去をつなぐ日帰りの時間旅行 軍事遺跡が伝える「もうひとつのセントーサ」

シンガポール本島の南の沖合約1キロにあるセントーサ島は、ユニバーサル・スタジオやカジノ、水族館などで賑わう一大レジャースポット。しかしその明るいイメージとは裏腹に、第二次世界大戦中は日本との戦禍に巻き込まれた地でもありました。この国を代表するリゾートアイランドであり、日本人にとっても馴じみ深いセントーサ島の“別の顔”を歩いてみました。

 

フォートシロソの対岸にあるプラウ・ブコム島の石油施設などの見張りも兵士の職務だった。

 

高速エレベーターと遊歩道で行ける遺跡

シンガポール本島のMRTハーバーフロント駅からモノレールでセントーサ島に渡り、水着姿の観光客とともに島内の巡回バスに乗車すること約10分。島西端のシロソ・ポイントで下車し、左の眼下に広がるビーチを横目に坂道を歩くと2年前に完成したばかりの高速エレベーター塔の入り口が見えてきます。そこから11階まで一気に上がり、遊歩道「シロソ砦スカイウォーク」へ。上から見えるセントーサ島の眺望は爽快で、この真新しい遊歩道の先に、この島で唯一保存されている沿岸の軍事遺跡「フォートシロソ(シロソ砦)」があるのかと想像すると不思議な感覚に陥ります。

 

意外なことに、セントーサ(マレー語で“静けさ”の意)という名称は1970年に一般公募で名付けられた比較的新しいもの。1840年代にマラリアが大発生して多くの島民が亡くなった出来事もあり、古くは「プラカンマティ(マレー語で“死者の彼方の島”の意)」と呼ばれていたといいます。シンガポール発展の素地を作ったといわれる英国のスタンフォード・ラッフルズ卿は1810年代、手つかずの漁村だったこの島がいずれシンガポール防衛の最前線になるといち早く着目していました。

 

実際、1869年のスエズ運河の開港に伴い貿易が活発になると、シンガポールの海の玄関口・ケッペル港への他国からの侵入を防ぐため、英国はセントーサ島内の数ヵ所に砦や砲台を築造しました。セラポン砦(現・セントーサゴルフクラブ近辺)やカノート砦(現・セントーサコーブ地区)などです。

 

その一つであったフォートシロソは1870年代後半からシロソ山を崩して建設され、1885年に完成すると英国人兵18人が砲兵中隊として駐屯し、7インチ砲3門と64ポンド砲2門が装備されました。1930年代以降になると要塞として6インチ連射砲や5つのサーチライト、指揮塔などが増備され、日本軍の軍艦との戦闘でも活躍することになります。

兵士の暮らしぶりを再現したジオラマも

現在のフォートシロソは、当時シロソ山に建造された砲台を中心に地下トンネルや武器庫、さらに蝋人形で兵舎内部や日英の降伏文書調印式の様子が精巧に再現され、戦前から戦後にかけての写真や文書、映像も所蔵されている国営の軍事博物館になっています。

 

見学コースにある厨房の様子を再現したジオラマ。兵士用の食事は現地の人々が作っていたが、たまにカレーが出されることもあったという。
館内ではシソロ砦の概要からシンガポールの軍事史まで音声や映像も使って分かりやすく展示されている(日本語訳もあり)。

 

「蚊帳がついた金属製のベッドで毎朝起床した兵士たちは朝食後に砦まで行進し、砲撃演習に就く毎日を送りました。食事は肉やわずかな野菜を材料に木炭や薪のかまどのある厨房で作られ、洗濯はドビ・ワラ(“洗濯する人”の意)と呼ばれる人々が担っていたようです。その他、わずかな料金で軍服などの直しをする専属の仕立屋や理髪師もいて、彼らのほとんどが地元の島民だったと言われています」そう解説してくれるのは公務員として働くかたわら研究のため戦時遺跡を訪ね歩くヘルミ・カイドさん。

 

1942年に山下奉文・陸軍大将が率いる日本軍によってシンガポールが陥落すると、フォートシロソは1945年の終戦まで、泰緬鉄道(第二次世界大戦中にタイとミャンマーを結んでいた鉄道)の建設などに派遣される捕虜の収容所として使われました。戦後、シンガポール政府を中心にセントーサ島のリゾート化が始まると、軍事遺跡として島内で唯一保存されることになり、1974年に一般公開されました。

 

「セントーサ島には豪華でエキサイティングなスポットがたくさんありますが、時にはフォートシロソなどの遺跡へ足を運ぶこともおすすめします。時空を越え、シンガポールのまた違う一面が見えてくるかもしれませんよ」(ヘルミさん)

 

2015年に新たに開業した「シソロ砦スカイウォーク」(無料)からの景色。晴天だと沖合に浮かぶタンカーやケッペル湾岸を再開発した超高級コンドミニアム「リフレクションズ・アット・ケッペルベイ」も一望できる。Fort Siloso: http://sentosa.com/