「グラフィティは、『私は生きている、この町は生きている』と市民に語り掛ける生命体だ。グラフィティのない町は、花のない野原のようなものだ」
—『 Las Calles Hablan』 (2013)
次々と進む都市開発プロジェクトのもと、街の風景が年々変わるシンガポール。建物の新旧に関わらず、近年スプレーなどで描かれたグラフィティ・アートや人々の生活や風景を描いた壁画が、街並みに新しい彩りを加えています。
シンガポールのグラフィティ、「落書き」から壁に描くアートへ
シンガポールには、校舎などに子供たちが描く一般的なものから、チャンギ博物館にある元英国軍捕虜のスタンレー・ウォーレンが描いた宗教画といった歴史的なものまで、様々な壁画があります。最近では派手な色合いのスプレーやペンで壁に描かれるグラフィティ・アートもよく目にするようになりました。ミドル・ロードとブラスバサー・ロードに挟まれた文芸学術地区として知られる界隈には特に多くあります。
グラフィティといえば、許可なく公共物に「落書き」したことで、器物損壊・景観破壊の違法行為として厳しく罰せられた事例がシンガポールにはいくつかあります(2010年にスイス人の会社員がSMRTの車庫に侵入し車両に落書き。懲役7ヵ月とムチ打ち3回の刑を受けた、等)。一方で、手続きは複雑ですが建物の所有者、住宅開発庁(HDB)や都市再開発庁(URA)などに事前申請して許可が下りれば、誰でも外壁などに壁画を施すことができます。現在ではアート施設、レストランやホテル、時にはオフィスの壁面にとアーティストたちが招かれることも増えました。その技巧の高さに目を見張るようなグラフィティ・アートもたくさんあります。
旧き良きシンガポールの風景が壁画に蘇る
2015年8月から活動を始めた壁画アーティストのイップ・ユーチョンさんは、カンポン・グラムにあるリトアニア人のアーネスト・ザッカレビクさんの壁画を見て、自分が20年暮らす街角に懐かしい風景を描き留めようと思ったといいます。エバートン・ロードに描いたプラナカンの暮らしやショップハウスの食材屋をはじめ、チョンバル地区には70年代のホーカーや市場の様子、居間でくつろぐ人など往時を忍ぶ光景を生き生きと描いています。実物大に近い、程よく奥行きを持たせた描き方が、通り過ぎる人を壁画の一部にしてしまうかのようで、見る人が思わず近づいてしまうのもうなずけます。
金融関係の会社に勤務するイップさんは、シンプルなものなら週末の2日、長くても4日間で、アクリルの画材を使用し壁画を仕上げます。新作のウォータールー・ストリート51番地にある「ヘリテイジドア」は、同級生のユアン・カムチョンさんと描いた大作で、消滅してしまった建物や、ほぼ見かけなくなった通りの風景や人々の暮らしが描かれています。その腕前を買われ、9月にはロンドンのチャイナタウンで、シンガポールとマレーシアの風景を壁に描く招待を受けているのだとか。
「壁画は屋外に晒されているため、大体2~4年で色が褪せて塗り替えが必要になる。その時に塗り替えてしまえばまた元に戻るというところがいいんです。長くそこに留めておくのが目的ではないので、もし数年後に壁画を修復を頼まれたら、私は一度きりの手直しにしたいですね」と、イップさん。取材の間もイップさんの壁画を子供連れで訪れる家族や、その前で写真を撮る若者たちが次々にやってきました。「壁というキャンバスは一緒でも、グラフィティ・アートは隠されたメッセージを描くといわれています。私の場合は見えているままですが(笑)、見てくれた人が昔を思い出したり、若い人ならその原風景を少しでも体感して覚えていてくれるきっかけになったら嬉しい」。
真新しくデザインも斬新な高層ビルを背景に、人間味溢れるグラフィティ・アートや壁画を訪ねて歩けば、時代を超えてシンガポールに暮らす人々の声が聞こえてきそうです。それらは色褪せるまでシンガポールの新名所となり、訪れる人を惹きつけていくことでしょう。