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太平洋を渡ったクバヤの里帰り。

クバヤは、プラナカン(マレー半島で生まれ育った中国系移民の子孫)や、インドネシア人の女性が、スカート代わりのサロン(腰巻き布)の上に着る伝統衣裳のこと。テーラーメードで丁寧に仕立てられたプラナカンのクバヤには、そのアイデンティティー、時代の流行などが反映され、いまに興味深いストーリーを伝えてくれます。

1920年代のものと鑑定された友人のクバヤ・ケラワン。サロンはピーターさん所蔵。

 

アメリカ人の友人から託された1枚のアンティーク・クバヤの由緒を知るために、カトンアンティークハウスのピーター・ウィー(Peter Wee)さんを訪ねました。そのクバヤは、友人の父が1970年代にカリフォルニアの骨董屋で買い求めたもので、価値あるものならアメリカで自分の手元に置くより、アジアの博物館やコレクターの方に譲りたいと、鑑定のために手渡されたものです。

そのクバヤを一目見たピーターさんは、そのカッティング、刺繍の施し方などから、「古いものですね。1920年代くらいにインドネシアで作られたものでしょう。」とまず一言。「刺繍が素晴らしい。ちょうどシンガーの足踏みミシンが普及し始めた頃のもののようです。前身頃のすそは、長く尖った三角形で、そこに網の目のようなホールカットと花々の刺繍が施してある。典型的なクバヤ・ケラワン(Kebaya Kerawang)といわれるスタイルです。」すらすらとピーターさんの見解が続きます。ババ(プラナカンの男性)であるピーターさんは、プラナカンの陶磁器、サロン・クバヤ、ビーズ細工のスリッパなどのアンティークコレクターとして知られ、プラナカン博物館や、ババハウスなどのコンサルタントでもあり、説得力も十分です。

ピーターさん所蔵のクバヤ・スラムとサロン。

 

1900年代初頭のニョニャ(プラナカンの女性)は、バジュ・パンジャンというバティック生地で作った膝上丈の長めの上着を着ており、クバヤはその後に登場しました。プラナカン全盛期の20世紀前半にニョニャ達に愛され、時代とともにそのスタイルも変わっていきました。クバヤ・ケラワンは、クバヤの初期に多く見られ、近年のものは、すそがあまり長く尖っていないクバヤ・スラム(Kebaya Sulam)が主流だそう。綿ボイルの薄織の生地に、西洋の花々とその上に蝶が舞う刺繍が施された、少し色あせたような友人のクバヤ。西洋の花に蝶というモチーフは、西洋のものを好み、中国の文化を受け継いだ、プラナカンそのものの組み合せです。中には、バラや楽器、日本の芸者といったユニークなデザインのクバヤもあるそうです。薄い色使いも昔のプラナカンが好んだもので、現代のクバヤは、赤、青、黄色など、はっきりした色の布地のものが多く、縁取りの刺繍のスタイルも異なります。

ニョニャの伝統衣裳であるクバヤは、通常「サロン・クバヤ」と呼ばれ、サロンとの組み合せ抜きには語れません。まずサロンがあって、その上着となるクバヤの色や刺繍のデザインを決めたといいます。200枚以上あるコレクションの中から、ピーターさんが選んだサロンを手持ちのクバヤにあわせると、まるで息を吹き返した様に、そのデザイン、色合いが美しく映えました。そして、これにブラウスの前を留めるブローチのクロサン、ベルト、ビーズのサンダルをあわせて、ニョニャ・ファッションは完成。往時のニョニャ達は、そんなコーディネート談義にさぞや花を咲かせていたことでしょう。

ピーターさんいわく、仕立てのいいクバヤは、たたむとすぐにわかるのだそう。前身頃と後ろ身頃の縫い目のすそと襟の真ん中をつまむとピタリと半身に折れて、背中の部分の美しいラインが現れました。すその刺繍をなで上げる様に手際よくたたむピーターさんの満足そうな笑顔。 大量生産が可能となり、手頃なサロン・クバヤを気軽に現代女性が身にまとうことを、文化が継承される良い傾向だとしながら、古き良きものに宿るストーリーを語り継ぐことが自分の役目だとピーターさんはいいます。「このクバヤの持ち主の方は、手放すことにご興味がおありですか。」と、ピータさん。里帰りしたクバヤの新しい家は、どうやらすぐに見つかりそうです。

カトンアンティークハウスのオーナー、ピーター・ウィーさん