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オーチャード・ロードに建つ大きな城「ニーアン・シティ」

シンガポールで一番の繁華街オーチャード・ロードでひと際賑やかなエリアがオーチャード・ロードとスコッツ・ロードの交差点から東へ数百メートルの一帯。中でもニーアン・シティは、在星日本人にはもちろん、観光で訪れる人々にもおなじみのスポットです。ローカルの人々には、アンカーテナントであるシンガポール髙島屋から取った「タカ」の愛称で親しまれています。

ニーアン・シティの正面エントランス。両脇に置かれた獅子もオリエンタルな外観に一役買っている。

中国語で「義安城」と表記されるニーアン・シティが建つこの土地のオーナーは「義安公司(Ngee Ann Kongsi)」という1845年に設立された老舗企業。当初は潮州系移民が必要とする宗教的なものや葬儀などの儀式に必要なものを提供していました。ちなみに「義安」はシンガポールに多い潮州系移民の故郷である中国・広東省潮州市の一帯にかつてあった義安郡に由来します。シンガポールで潮州系移民が増えるにつれ、義安公司は若い世代への教育や文化活動なども手がけるようになりました。ブキティマにあるニーアン・ポリテクニックも義安公司が設立した学校のひとつです。文化施設などにも「義安」の名を冠したものがいくつかあります。

さて、ニーアン・シティに話を戻すと、この場所がかつてお墓だったと聞いたことがある方もいるでしょう。現在のウィズマ・アトリアからマンダリン・オーチャード・シンガポールあたりまでの一帯は、20世紀半ばまで義安公司が管理する潮州系中国人の広大な墓地でした。1950年代にお墓の移設がすすめられ、イシュンに新しく建設されたメモリアル・パークなどに移されて、1957年に再開発用に土地が整備されました。その一部は政府が取得し、オーチャード・ロードの拡幅や、MRT建設プロジェクトのために確保されました。現在のニーアン・シティの位置には、義安公司によって10階建てのニーアン・ビルが建設されました。建物の一部は店舗として、残りは住居として貸し出され、60~70年代にかけて外交官や大企業のエグゼクティブたちが住むシンガポールで一番モダンなビルとしてもてはやされたそうです。やがてニーアン・ビルも取り壊され、約4年の歳月をかけて1993年に現在の「ニーアン・シティ」が完成しました。

ニーアン・シティ建設前の状態。画面奥の高層ビルはマンダリン・オーチャード・シンガポール。

東洋の顔と西洋の内装を持つビル

ニーアン・シティの設計を手がけたのは、地元の建築設計事務所レイモンド・ウー&アソシエイツ・アーキテクツ。代表のウー氏によると、ニーアン・シティのデザインには、ちょっと欲張りなぐらい様々な要素が取り入れられています。教育、文化、慈善事業などを手がける義安公司をはじめ潮州系の人々を象徴する堂々とした建物にすべく、万里の長城のような頑丈さと、高層ツインタワーのバランスがもたらす安定感、オーチャード・ロードに面したエントランスの開放感、集まる人々を寛大な気持ちにさせてくれる大きな広場、地上からも地下からもアクセスの良いランドマーク、といったコンセプトを元に、約4ヵ月かけて設計が作られました。余計な装飾は排して、時代が変わっても風化することのない、建築の流行にも左右されない建物で、人々にとってシンボルとなるものにしたかった、とウー氏は語ります。外壁には中華系の人々にとって縁起の良い赤を取り入れ、きれいに研磨された赤花崗岩が採用されました。オリエンタル色の濃い外観とは打って変わって、内装はかなりヨーロッパ風。その組み合わせは、アジア系の顔を持ちながらヨーロッパの影響を強く受けているシンガポールの人々に通じるものを感じます。

正面のエントランス前には、半円形のオープンスペース「シビック・プラザ」が広がっています。毎年9月に開催されるライオンダンスの大会やクリスマス・ライト・アップの点灯式、ストリート・サッカー大会、ファッション・ショー、展示会など、様々なイベントに多くの人々が集い、文字通り「市民の広場」として機能しています。

ニーアン・シティの模型。

1993年10月に行われたシンガポール髙島屋のオープニング・セレモニー。一番左は当時情報芸術相だったジョージ・ヨー氏。

ここ数年、オーチャード・ロード沿いには次々と新しいショッピングモールが誕生していますが、世界の一流ブランド店が軒を連ね、髙島屋や紀伊國屋書店、ベスト電器など日系の大型店舗、日本の“デパ地下”を髣髴とさせる地階など、様々な顔を持つニーアン・シティはやはり今でもオーチャードの顔。「更に年月が経てば、もっと良さが出てくる建物ですよ」というウー氏の言葉を思い浮かべながら見上げていると、早くその未来を覗いてみたいという気持ちに駆られます。