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世界遺産に選ばれた国民の憩いの場 ボタニック・ガーデン

Main-DSC03146-r週末はピクニックをする人々でにぎわうパーム・バレー。

 

シンガポールの中心地、オーチャード界隈に位置するボタニック・ガーデン。東京ドーム約16個分相当の74ヘクタールを誇る当ガーデンには、年間約440万人の人々が訪れます。今年7月4日には国内初の世界遺産にも登録されました。その決め手は、世界遺産登録の基準10項目のうち「東南アジア諸国の経済的発展に大きな影響を与えたこと」「シンガポール国民の文化交流に重要な役割を果たしたこと」を満たしたことが挙げられます。

東南アジア経済の発展に貢献した若き植物学者、
そしてパラゴムノキ

ボタニック・ガーデンの歴史は1859年に遡ります。著名なビジネスマンであり熱心なガーデナーでもあったフー・オーカイ(Hoo Ah Kay、通称Whampoa)がタングリンに所有していた、東京ドーム約3個分に相当する24ヘクタールの土地。これを彼自身が所属していた農業園芸協会(Agri-Horticultural Society)が譲り受け、シンガポール国民の憩いの場として、また訪れる人々が美しい花々を楽しめるようにと開設したのが始まりです。
ところが1875年、負債が膨らんだことから園芸協会から政府の手に運営が委ねられます。そこで、若き植物学者ヘンリー・ジェームズ・マートンが園長となったことにより、植物の研究の場としての側面が加わります。中でも東南アジア経済を大きく変えたのがパラゴムノキ(英名:Para rubber tree)です。1876年にブラジルからイギリスに運ばれた7万個ものパラゴムノキの種のうち、シンガポールに植えられた種は11個でした。その後10年以上の歳月をかけてゴムの木は栽培に成功します。
木の植え付けに成功し、先見の明もあった当時の園長ヘンリー・ニコラス・リドレーはパラゴムノキの種を持ってマレー半島の農家を訪ね歩き、何とかこの木を植えてもらおうと尽力します。しかし、当時のマレー半島ではコーヒー豆の栽培が主流で、農家からはほとんど見向きもされなかったそうです。その時、彼についたあだ名は「Mad Ridley(狂ったリドレー)」でした。しかし時代が味方します。世界中で自動車と自転車のタイヤにゴムが使用され始め、需要が急騰したのです。また、それまでは木を切り倒さないとゴムの収穫ができなかったのですが、リドレーの発案により木の幹に切り込みを入れるだけでゴムを採取できるようになり、一気にゴム農園が増えることとなります。1905年には400トンだったゴムの生産量は1920年には21万トンへと急増し、マレー半島一帯の大きな収入源となったのです。

 

ヘリテージ・ツリー“テンブス(Tembusu)”と、
市民交流の場としてのガーデン

オーチャード寄りにあるタングリンゲートから入ってすぐの芝生に植えられているシンガポール原産の木、テンブス(Tembusu)。横に大きく伸びた枝が特徴のこの木は、シンガポールの5Sドル札の絵柄にもなっており、シンガポール人にとって馴染みの深い木です。樹齢180年を超えるこの木は特別天然記念樹(ヘリテージ・ツリー)に指定されており、1950年代頃までは地元の家族が集まって枝に座り、集合写真を撮るのが習慣だったそうです。ここで撮影した家族写真が飾られた家も多く、若い世代のシンガポール人にとっても自分を可愛がってくれた祖父母を思い出すノスタルジックな木だと言います。
また、その先にあるビクトリア調のバンドスタンドでは当時、週末になるとバンド演奏が繰り広げられていたそうです。その周りでは女性たちによるバザーが開催されたり移動動物園がやって来たりと、市民が集う憩いの場として大きな役割を果たしました。さらにその頃、お見合い結婚をする際、家族同士がパートナーとなる人を連れて来て初めて顔合わせをする“仲立ち”の場としてもボタニック・ガーデンは重要な場所だったそうです。

昔のままのジャングルも、ほぼ手つかずの状態で残されているボタニック・ガーデン。現在も週末には様々な市民向けのイベントが開催され、朝早くから熱心に太極拳を行う人々の姿も見られます。昔も今も、そしてこれからも変わらずシンガポールの憩いの場として存在していくことでしょう。

テンブスの木。5Sドル札にも描かれている。 
 タングリンゲート脇には世界遺産を記念したプレートが埋め込まれている。
2015年8月7日にはリー・シェンロン首相が訪れ式典が行われた。

現在ではウェディング写真に欠かせないバンドスタンド。