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多国籍の現代女性に愛される プラナカンのお家芸ビーズ刺繍

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ビビさんが作り上げた伝統的衣装で、かつてのプラナカンたちの結婚式を再現。

シンガポール建国よりはるか前、15世紀後半にマレー半島にやってきた中国系移民の子孫「プラナカン」。彼らによって築き上げられてきた華やかなプラナカン文化の象徴ともいえるのがビーズ刺繍です。かつて「ニョニャ(娘惹)」とも呼ばれたプラナカン女性たちの花嫁修行のひとつだったビーズ刺繍。プラナカンの家庭ではニョニャたちがビーズ刺繍を施したタペストリーやスリッパなど、きらびやかなインテリアで溢れていたといいます。

良妻賢母の証だったビーズ刺繍

ニョニャのビビさん。アンティークコレクションなどに囲まれながら、日々作品作りに励んでいる。

「ビーズ刺繍は大変忍耐のいる手仕事です」。そう語るのはプラナカン建築が今も多く残されているカトン地区でプラナカン雑貨店「Rumah Bebe」を営むニョニャのビビさん。案内された部屋には、まさに忍耐の賜物とも言える極小ビーズが精密に縫い込まれたアンティークコレクションがずらり。当時ヨーロッパからもたらされた宝石のようなこのガラスビーズは直径1mm以下。これを何千、何万個と1本の刺繍針で縫い付けていくのは気の遠くなるような作業です。「素晴らしい作品を仕上げたニョニャは、何においても忍耐強く良妻賢母になれる証として、より良い縁談がきたものです」とビビさん。結婚式当日は皆、自らが縫い上げた輝くビーズ刺繍の花嫁衣装に身を包んで誇らしげに嫁いでいったといいます。
しかし、第二次世界大戦でプラナカンたちも富を失い、彼らの豪華なライフスタイルが失われる中で、ビーズ刺繍の技術も急速に廃れていきました。女性の社会進出が盛んになり、花嫁になることだけが女性の道でなくなったこともニョニャたちのビーズ刺繍に対する関心を薄れさせることになりました。「時代遅れのファッション」として、所有していた服や靴を捨てる人も多く、ビビさん自身もそれまでビーズ刺繍は「古臭い」ものとして興味がなかったといいます。

1世紀前のアンティークビーズが息を吹き返す

左が15世紀にヨーロッパからもたらされた直径0.5mmのアンティークビーズで作られたサンダル。右は現在日本などで生産されている直径2mmほどのビーズで作られたもので仕上がりのイメージも大きく異なる。アンティークの極小ビーズは数が少なく、また扱うのも難しいため教室では大粒のビーズを使うことが多い。

ところが、今から20年ほど前に訪れたマレーシア・マラッカのアンティークショップで、あまりにも美しいプラナカンのビーズ刺繍に出会ったことでビビさんの意識も一変。このような素晴らしい技術を継承できる女性がほとんどいなくなってしまったことに初めて危機感を覚え、本格的にこの伝統工芸を復活させようと決めました。しかし、ビーズ刺繍復活のために不可欠なふたつのものを探すのに苦労します。
ひとつは「師匠」でした。ビーズ刺繍は家庭で母から娘へ代々受け継がれてきた手料理のようなもの。教本などありません。誰かに教えを請おうにも、ビビさんの母親をはじめ、かつてのエキスパートたちの多くが高齢になり視力が衰える中で、刺繍針を持つことをやめてしまっていました。ビビさんはプラナカンコミュニティを回って少しでも針を扱える人を見つけ、見よう見まねで技術を習得していきました。
もうひとつの重要な探し物は主役であるビーズでした。プラナカン文化が栄華を極めていた19世紀から20世紀初頭にかけて愛用されていた極小のガラスビーズのほとんどが既に生産中止になっていたのです。ニョニャ自慢の緻密なビーズ刺繍の復活にこだわるビビさんは、マラッカやペナンのアンティークショップを巡って希少な極小ビーズを少しずつ調達。骨董品として眠っていた1世紀前ものビーズに息を吹き込み、作品を次々と作り上げていきました。
多民族国家で、各民族がそれぞれの独自文化を守る傾向のあるシンガポールですが、ビビさんには「ビーズ刺繍はプラナカン女性だけの文化」という考えはありません。むしろ多民族の特徴を活かし、色々な人たちに技術を教えてプラナカン文化を広めていきたいという思いが強く、ビーズ刺繍教室もスタート。「2008年にプラナカン博物館がオープンしたことも人々のプラナカン文化に対する関心を高めたのだと思います。さまざまな国籍の女性が教室を訪れるようになりました」(ビビさん)。ここで技術を習得した女性の中には、自分の国に戻ってビーズ刺繍を教えている人もいるそうです。
ニョニャたちの間で受け継がれ、一度は廃れかけた伝統工芸が、今や多国籍の女性の中で息づいている様は国際色豊かなシンガポールならではのことでしょう。