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在星日本人の歴史が眠る公園「Japanese Cemetery Park」

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セラングーン地区の閑静な住宅地の中にあるチュアンホー・アベニュー(Chuan Hoe Ave)を歩いていると、突如「日本人墓地公園」と書かれた門が現れます。ここは日本の明治時代から120年以上ある墓地で、かつては「日本人共有墓地」と書かれたアーチが門に掛かっていました。中に入ると、左手に小さなお地蔵様が並び、すぐ横の大きなお地蔵様が立つ台座には「ひのもと地蔵尊」とあります。日本のどこかに居るような錯覚を覚えつつ、道の先に目をやると、日本式の屋根が付いたお堂が見え、短くきれいに刈られた芝の鮮やかな緑と対照をなす大小の墓石が敷地全体にずらりと並んでいます。

 

ゴム園の中にできた共有墓地

この墓地ができたのは1891年7月2日。ゴム園を営んでいた二木多賀治郎が自分の土地の一部を墓地として英国植民地政府に申請、数年がかりで使用許可を得ました。同時期に墓地の管理にあたる団体として共済会が発足、日本人会の前身となりました。

 

墓地の中で一番古い墓は1889年に亡くなった「からゆきさん」のもの。彼女たちの多くは、貧困から逃れるため、あるいは身売りされて世界各地へ渡って行きました。20世紀初めまでは、彼女たちは絹や石炭と並ぶ日本の主要な「輸出品」で、貴重な外貨獲得源でした。近代国家となる過程で起きた哀しい歴史がここに垣間見えます。

 

1893年には、兵庫県出身の曹洞宗の僧侶・釋種楳仙和尚が来星して墓地の中に草庵を結びました。托鉢により浄財を集めて、1911年、墓地の北側の一角に釋教山西有寺を建立。お寺では葬祭だけでなく花祭りなどの行事も行われ、日本人が集う場となっていたようです。

 

墓地の正門から入って左手に進むと、奥の方にひっそりと大きな石碑が3つ並んでいます。太平洋戦争中に落命した軍人、軍属や、戦後に戦犯として処刑された者、作業隊での過酷な労働の中で傷病死した者などを弔うために1947年に建てられました。その後ろに立つ細い四角柱の石碑には「納骨一万余體」と書かれています。

 

1942年の大検証などで抗日分子とみなされて日本軍によって殺された華僑の数は数千とも数万ともいわれています。この島で失われた命の数を思いながらこれらの石碑の前に立つだけでも、戦争のむごさ、理不尽さをまざまざと見せつけられるようです。

 

日本人会再出発のきっかけ

戦後、1949年に墓地は敵産処分となって接収され、中国人墓守一人の手には負えず荒れてしまいましたが、1952年サンフランシスコ条約の発効後に日本総領事館が再開され、翌1953年には墓地の管理が総領事館に委ねられました。戦争により消滅していた日本人コミュニティも徐々に復活、墓地の清掃や管理などがきっかけで1957年3月14日に日本人会が再び発足しました。

 

白アリの被害で朽ちていた西有寺のお堂は1960年に墓地の大改修が行われた際に新しく建立され、1969年には墓地が正式に日本人会へ返還されました。1973年、市内の他の旧墓地とともに新たな埋葬が禁止され、管理の悪い墓地が都市開発や環境衛生のために次々と接収される中、日本人墓地は存続されました。

 

現在の御堂は1986年に建て直されたもの。墓地は無宗教とすることが決められていたことから、仏教的な「寺」ではなく「御堂(みどう)」と呼ばれています。

 

また、日本人会創立30周年記念事業として墓地の大規模な改修工事が行われ、「日本人墓地公園」として整備されました。その間に政府より墓地の接収が通告されましたが、官民総力をあげて陳情を行い、1989年から30年間の貸与と存続が認められました。

 

現在も、草刈りや植栽の手入れ作業がほぼ毎日行われ、日本人学校の児童・生徒やボランティアグループによる清掃活動も定期的に行われています。墓地公園を訪れる日本人観光客の姿も時々見られます。

 

毎年3月14日には、墓地公園で日本人会主催の慰霊祭が開催されています。当日は午後5時から日本人会史蹟史料部によるガイドツアーの後、午後6時から慰霊祭が始まり、大使および日本人会会長の挨拶と献花、黙とう、墓参などが行われます。誰でも自由に参加できます。