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500年の航海の歴史を受け継ぐユーラシアン

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生まれも育ちもシンガポールながら、ジェンセン、デ・シルビア、フィリップスといった欧米の名字を持つシンガポール人に出会う事が時々あります。アジアの風貌と共に、その顔立ちや肌の色にどこかエキゾチックな印象を持つ彼らは、中華系、マレー系、インド系についで、シンガポールを構成する4番目の人種、ユーラシアンと呼ばれる人々です。現在、シンガポールには7万〜8万人のユーラシアンが暮らしています。

 

ユーラシアンの先祖と歴史

ユーラシアンとは、ヨーロッパからの白人とアジアの現地女性が結婚した家族の子孫で、その歴史は、15世紀ヨーロッパの大航海時代まで辿り、香辛料の東西貿易で栄えたアジア各地にいます。シンガポールのユーラシアンは、マラッカに多くの祖先を持ちます。マラッカは、1511年ポルトガルに征服され、東西貿易の重要な中継港となり、その後、17世紀にオランダが征服、19世紀にはイギリスの支配下に置かれました。当時、ポルトガル人などの入植者達と現地の女性との結婚が奨励されたことで、ユーラシアンの人口は急速に増えました。

 

オランダ時代にポルトガルの支配層はマラッカを去りましたが、政治、経済、宗教の場面で重用されていたポルトガル語はそのまま使われ、その文化も丸ごとユーラシアンの人々を介して後世へ引き継がれました。クリスタン(Kristang)と呼ばれる彼ら独特の言語は、マレー語の文法に近く、ポルトガル語の語彙に由来するとされ、少数派ながら、現在もコミュニティの間で話されています。「西洋的発想で、伝統的にユーラシアンの子供達は男女問わず皆学校へ行き、支配国の言語、つまりポルトガル語や英語を学びました。そのことが歴史上ユーラシアンの地位を確かのものにしました」と語るのは、ユーラシアン協会のバートン・ウェスタラウトさん。植民地政府で公務員を務め、ビジネスにも携わった彼らの多くは、イギリスがシンガポールでの権利を手に入れた1819年以降、シンガポールへ移住しました。カンポンジャワロードからレースコースロードまでのエリアを指したリトルイングランド、教会や学校の多かったブラスバサーロード周辺、植民地政府公務員用の住宅が多くあったブキティマロード沿いに戦前まで暮らしていました。

 

現代を生きるユーラシアンたち

「Quentin’s」自慢のデビルカレー。
キャベツ、じゃがいもなどの野菜、ソーセージや骨付きベーコンをマレー風のカレーペーストで煮込む。
レストランではオーナーのクエンティンさんのユーラシアン家庭料理が楽しめる。
ユーラシアン料理レストラン「Quentin’s」

シンガポール建国期に、政治、法曹、経済、文化面で活躍した人物を輩出した功績と共に、1994年ゴー・チョクトン元首相により第4の民族として公的に認めらたという現代のユーラシアンの人々。第2代大統領のベンジャミン・シアレス氏、シンガポール政府樹立後すぐに法務労働大臣を務めたK・M・バイルン氏、篤志家として知られるチャールズ・パグラー氏などを始め、現在活躍中の音楽家のジェロミー・モンティロ氏や舞踏家のシルビア・マッカーリ氏などが有名です。

 

1919年に設立されたユーラシアン協会は、現在4階建ての独自の会館を持ち、後世への教育、コミュニティー内での生活扶助提供など活発に活動しています。自由な婚姻が進み、ユーラシアンの定義も拡大する中、「過去への哀愁でも未来への憂いでもなく、若い世代にはユーラシアンである自分のルーツに関する知識と理解を持って、将来それぞれの道へ進んでもらいたい」と、ウェスタラウトさんは期待を込めます。

 

ユーラシアン会館には、ユーラシアンの歴史を展示するギャラリーの他、シンガポールで唯一本格ユーラシアン料理を供するレストラン「Quentin’s」を併設。会館は外部にも開かれており、誰もが足を運んで、昔と変わらず美食、美酒、音楽を愛するという現代のユーラシアンの文化を五感で味わうことができます。ユーラシアンなら誰もが知るという「ジンクリ・ノナ」のリズムを耳にしながら、ポルトガルやマレーの風味が見事にマッチした料理を食せば、ひと味違ったシンガポールの一面を垣間みれるでしょう。