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コロニアル・ビルを代表する、アジア文明博物館

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26年前、記者が初めてシンガポールでエンプロイメント・パス(就労ビザの一種)を申請したときに訪れたのが、今回取り上げるアジア文明博物館の前身、エンプレス・プレイス・ビルでした。植民地時代に建てられた他の建築物と同様、どっしりとした荘厳な趣き、高い天井、アーチ型の窓や幅広い階段などに宗主国・英国の伝統が感じられます。場所はビルの名前「エンプレス・プレイス」が示すとおりで、スタンフォード・ラッフルズ卿が上陸した地点として知られています。ビクトリア・コンサートホールやスタンフォード・ラッフルズ卿の像などが隣接しているのはご存知のとおり。ひと昔前までこのあたりはシンガポール川の河口で、海から船で上陸するとまず目に入るのがこの一帯だったのです。

 

150年前に建設され役所として活躍

エンプレス・プレイス・ビルをデザインしたのはコロニアル建築の第一人者であったJ. F.マクネア(McNair)氏で、その頃建てられたほかのビルと同様、建設に従事したのは囚人の労働者たちだったそうです。1860年代のことでした。建設費は5万3,000ポンドだったと記録されており、現在の為替レートで計算すると680万円ほどになります。ネオ・パラディアン様式と呼ばれるデザインで、エントランスや窓の周囲の装飾などに特徴が見られます。これはもともと16世紀のヴェニスの建築家・パラディオがデザインした様式ですが、その後イギリス人建築家らが引き継いでおり、シンガポールでもラッフルズホテル、シンガポール博物館、それに旧日本人会の建物にも取り入れられていたそうです。

 

エンプレス・プレイス・ビルは長年、植民地政府の役所として使われていましたが、20世紀初めには移民局となり、ここで出生届、死亡届を提出していましたし、結婚登録も受けていました。シンガポールが独立した1965年以降も移民局はここでその役割を継続していましたが、1987年に老朽化したビルから移転し、その後ビルは増改築されました。

 

博物館として蘇る、アジアの民族文化を紹介

改修工事が終わって美しく蘇ったビルでは1990年代、主に中国からの美術品を紹介する期間限定の美術展が行われるようになりました。天井が高く、壁面の広い館内は大型展示に適した造りだったのです。その頃アルメニアン・ストリートにあったアジア文明博物館(現プラナカン博物館)がエンプレス・プレイス・ビルに移転することがのちに決まりました。

 

アジア文明博物館がこのビルに開館したのは2003年3月のこと。中国、東南アジア、南アジア、西アジアの文化・美術を紹介する博物館として生まれ変わりました。これらの地域はシンガポールの国民を構成する各民族の出身地でもあります。つまりアジア文明博物館は、シンガポールに暮らす人々の祖先が築いた文化、そしてその文化から生まれた芸術作品を順次紹介してゆく目的を担っているのです。3階建ての館内には11のギャラリーがあって、常設展示としてはシンガポール、東南アジア、西アジア、中国、南アジアの5つのギャラリーがあります。2階に上がってまず目に付くのはシンガポールの展示で、ここの資料を見ると、主にシンガポールの開拓史、シンガポールの港湾と川が辿ってきた、東西の交差点としての歴史、そしてその中心的な場所としてエンプレス・プレイスが紹介されています。

 

過去に行われた展示会を見ると、中国やインドの古典的な美術品の展示が多く、中には海外に出展されるのは初めてという展示物も数多く公開されてきました。日本の美術品を扱った「日本のお面(Hidden Faces-The Art of Japanese Masks)」という展示会が開催されたこともあります。現在は「インド・テキスタイル展(Patterns of Trade-Indian Textiles For Export)」と「唐朝・難破船の宝飾展(The Tang Shipwreck Gold and Ceramics from 9th century, China)」の2つの特別展が行われているところです。長い歴史を誇るアジアの大国、インドと中国は芸術品の宝庫でもあります。アジア文明博物館はこれからも、インド、中国、そしてアジア各国の美術作品を展示して、私たちを楽しませてくれるでしょう。