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童心にかえって昔話や伝承の世界へ「ハウパーヴィラ」

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奇妙な像とジオラマが並ぶ、不思議な場所として紹介されることが多いハウパーヴィラ。軟膏薬のタイガーバームで財を成した胡文虎(Aw Boon Haw)とその弟、胡文豹(Aw Boon Paw)によって建設された庭園であることでも有名です。

 

胡兄弟はミャンマー生まれ。兄弟の父である胡子欽は、福建省の客家の家庭に生まれ育った中医師でした。子欽は、一族の面倒を良く見て、病気の時にも診療代をほとんどもらわないような人物。しかしそれでは経済的に行き詰まり、自分で調合した薬や薬草を麻袋に詰め込んで海外へ出ることに。シンガポールからペナンを経て、ミャンマーのラングーン(現ヤンゴン)に移り住んだ子欽は、1870年に永安堂という名の薬局を開業。現地で中国人女性と結婚し、3人の息子に恵まれました。長男は夭折してしまったため、次男の文虎が10歳になると、中医学を学ぶために中国の父親の元へ行かせました。三男の文豹はラングーンに残り、英国流の教育を受けました。

 

後にタイガーバームとして知られる軟膏を考案した子欽は、1906年に亡くなる際、息子たちに軟膏を商品として完成させてほしいと言い残したそうです。父亡き後の永安堂を軟膏の製法と共に受け継いだ兄弟は、軟膏に当時は虎の骨が入っていたことからタイガーバームと名付けました。パッケージやラベルのデザインも工夫し、タイガーバームを大々的に宣伝。東南アジア各地で販売されるようになり、二人は巨額の富を得ました。

 

1926年、英国の占領下でアヘンの強制捜査を受けたことをきっかけに、永安堂をシンガポールに移すことを決め、兄弟も移り住みました。中国市場での展開を図るために香港にも進出する一方、文虎はパシ・パンジャン地区の海を望む丘に土地を購入し、当時流行していたアール・デコをデザインに取り入れた大邸宅を弟のために建て、その周囲に大庭園を築き上げました。1937年の完成当時は「タイガーバームガーデン」と呼ばれ、文虎のアイディアで中国の神話や道教の教えなどを啓蒙するための像やジオラマを庭園の中に配して、一般の人々にも無料で公開。タイガーバームの広告も兼ねていたあたりに、兄弟の商才とそつのなさが伺えます。

 

タイガーバームガーデンの変遷

戦争中はタイガーバームガーデンも日本軍に接収され、シンガポールを脱出してミャンマーに逃れていた文豹は1944年に亡くなりました。戦後邸宅は荒廃し、文虎の判断で取り壊しとなりました。しかし、自らのルーツでもある中国文化を伝える場にしたいという彼の強い意志もあって、庭園として整備が続けられました。1954年に文虎はハワイで亡くなり、その後は息子が管理していましたが、1988年にシンガポール政府観光局(STB)へ売却、胡一族の手を離れました。

 

STBから運営を委託された民間会社は、庭園をリニューアルし、1990年に有料のアミューズメントパーク「ドラゴンワールド」として開園しました。地獄で十王によって裁かれる様をジオラマで表した“Ten Courts of Hell”の外部全体に巨大な龍があしらわれ、来園者はその中をボートで巡っていました。屋外劇場では中国の伝説などを題材にした演劇が上演され、人々を楽しませていました。しかし、入場者数が減少するにつれてアトラクションは徐々に閉鎖、再び入場無料となり、2001年からはSTBの管理に戻った後、兄弟の名前を一字ずつ取った「ハウパーヴィラ」と名前を変えて現在に至ります。

 

庭園内にある像やジオラマは、白蛇の化身である女性が人間の男性と恋に落ちる民間説話『白蛇伝』や、明代の小説『封神演技』、『西遊記』、儒教の祖・孔子、清朝の三賢帝の1人・康熙帝の伝説、紀元前11世紀ごろに周の軍師として活躍した呂尚(太公望)など、様々な年代の物語や人物を色鮮やかに表現。また、昔の農村部での民衆の暮らしぶりを再現したジオラマや、親孝行な青年の話、自分の子ども以上に老婆を大切にした若い女性の話を描いたものもあります。

 

一生懸命働くこと、親や年寄りを大事にすること、昔からの教えや言い伝えを守ること――文虎が大事にして伝えたいと願ったことは、日本でも子どもの頃に教えられてきたことと通じるものが多いようです。