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ノスタルジックな風景にモダンが映える「アンシャン・ヒル地区」

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平地がちなシンガポールには、海岸線を見下ろせる小高い丘も少なく、植民地時代からそれらの土地は希少価値がありました。アンシャン・ヒルもその1つで、シンガポール経済の中心ラッフルズプレイスの高層ビル街と景観保存地区のチャイナタウンとの境にあり、クラブ・ストリート、アンシャン・ロード、アースキン・ロードに囲まれています。この界隈は、昔日の姿を残したまま、トレンドを生み出す営みが混在しており、今やシンガポールでも珍しいエリアのひとつかもしれません。

 

始まりは、ナツメグとクローブのプランテーション

アンシャン・ヒルという名前は、その閑静な佇まいに相応しく、漢字では「安祥(穏やかな)山」と書きます。19世紀中頃、イギリス人のチャールズ・スコットがこの丘でナツメグとクローブのプランテーションを開き、当時はスコッツ・ヒル(Scott’s Hill)と呼ばれていました。彼の死後、別の地主を経て、マラッカ生まれの福建人の商人である謝安祥が1894年に購入し、以降、アンシャン・ヒルと呼ばれるようになったのです。謝安祥は、スパイス、錫、茶葉、シルクなどを扱うイギリスの貿易会社に長く勤務した後、独立して製材業を営んで成功を納めた華人でした。 氏がアンシャン・ヒルを購入する少し前から、1889年にビジネスで成功した海峡華人達の社交場である「チャイニーズ・ウィークエンド・エンターテイメント・クラブ」が丘の上に建てられたことを筆頭に、いくつかの会員制クラブが集まり始めていました。クラブ・ストリートがその名を冠した由来でもあります。丘を下ったアンシャン・ロードやクラブ・ストリート界隈には、1930年代前後から同郷や同業者のための会館が立ち並び、また、中国からの労働者が仕送りを送るための送金所や、非識字者の彼らのために文書作成を代筆する店が多くあったそうです。それらの会館などでは、新しくこの地に来た縁のある人々をあらゆる側面で援助する機能もあったため、出稼ぎにきた人々が、華やかな様子のこの丘を見上げながらサクセスストーリーを夢見描いていたかもしれません。

 

アンシャン・ヒルは、今も昔も人々が集うところ

アンシャン・ヒル地区のショップハウスが並ぶ通りの外観はほぼ以前のままですが、今やその内装のほとんどは現代生活に合うよう改装され、洒落たカフェやレストラン、デザインオフィスなどが多く入居しています。特にアンシャン•ロードのショップハウスは、プラナカン達(中国人とマレー半島の地元の女性の間に生まれ独自の文化を持つ人々)が好んで使ったヨーロッパからの花柄タイルで装飾されたり、個性あるファサードを持った建物が多く、その瀟酒な趣きが、ヨーロッパブランドのセレクトショップやブティックホテルにもぴったりな雰囲気。ここにしかない町並みと空気を楽しみにクリエイターや高感度な人々が続々と集まることで、ますますコスモポリタンの様相を強め、世界中の観光ガイドブックなどにもよく紹介されるまでになりました。

 

そんな時代の波にもまれるも、上述の会員制クラブやアンシャン・ロードにある会館は、カフェやブティックと隣合わせながら、いくつか現存しています。5フィートの幅に統一されたひさしの下を歩くと、「海洲会館」、「天河同郷會」、「寧陽会館」などと書かれた立派な看板があり、中から麻雀の音が聞こえることもあるでしょう。快く中に通してくれた「清遠会館」を覗くと、設立から86年間の歴代の会員の顔写真が並び、会館へ寄付をした人々の名前、故郷を謳う書や水墨画が掲げられています。

 

以前は、旧正月や祝い事がある折は、この界隈に多くの人が集まり、それぞれの会館で催事に参加したり、競い合うように演じられるライオンダンスを見物したりしました。今では、訪れる会員達も70〜80歳代が中心。麻雀をしたり、お茶を飲みながら方言で昔話を語らう静かな日常があるのみだといいます。

 

国内の人口の7割以上が華人とはいえ、融合政策とシンガポール国民としての意識の高まりから、会館を囲んで中国本国の縁ごとに集う習慣は、当地ではほぼ消滅し、高齢者の間に残るのみです。とはいえ、人々が集う場を束ねるこの地区の役割だけは、偶然にも形を変えながら今に受け継がれており、これからも広く愛される町並みであり続けるでしょう。