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シンガポール最古の屋台街「Tiong Bahru Hawker Centre」

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初期の公団住宅やショップハウスの残る、庶民的な街ティオンバルに、シンガポールで最も古いホーカーセンターのひとつがあります。その名もティオンバル・マーケットで、1950年代にリム・リアック・ストリートにオープンした時、近くで個別に営業していた屋台が集められました。1階建ての建物の屋内と屋外の両方に店があったそうです。2006年に現在の3階建ての建物が建てられ、1階は野菜、果物、肉や海鮮類などを扱うウェット・マーケットと衣類や雑貨の店のアーケード、2階がホーカーセンターとなりました。ホーカーの数は83軒を数えます。その多くは数世代にわたって屋台を営み、半世紀以上も前の屋台の味を今も毎日提供しているのです。

 

ホーカーは生活の屋台骨

シンガポールの生活・文化、特に食文化をホーカーセンター抜きに語ることはできません。人々の生活が豊かになり、高級レストランが増え日本食もイタリアンもフレンチも楽しめるようになりましたが、地元の人々の日常食がホーカーの食べ物であることに変わりはありません。

 

シンガポール特有のスタイルでもあるホーカーセンターの歴史は戦前まで遡ります。中国からの移民の人々は男女ともに港湾や建設現場で忙しく働いていたため、食事は外の屋台で食べるのが普通でした。そうした外食の習慣が今も受け継がれているのでしょう。

 

初期の屋台は、移動式のカートや通りに台を置いて食べ物を並べたようなものでしたが、しだいに数軒が一箇所に集まりホーカーセンターの前身のような屋台街が登場しました。屋台街の多くは通り沿いにあって、設備の不十分さや衛生面でも問題が多かったようです。

 

シンガポール独立直後の1968年から69年にかけ、政府は屋台を登録制にしました。その頃の屋台の数はシンガポール全島で2万4,000軒を数えたそうです。

 

1980年代に入ると、政府は水道などの設備が整ったホーカーセンター専用(一部はウェットマーケットなども併設)の建物を建設し始めます。これは公団住宅HDB建設と並行して進められました。つまり公団住宅HDBがあるところには必ずホーカーセンターも造ったのです。最終的にそれは140にのぼりました。ホーカーセンター建設は1985年までにほぼ終わり、この年、通りで営業していた屋台の最後の1軒がホーカーセンターに移動した、と環境庁の公式サイトに記録されています。その後もアップグレードと呼ばれる改装は時々行われ、多くはエアコン設備のあるビルとなり、フードコートと呼ばれるようになったのはご存知のとおりです。

 

潮州、福建、海南――自らのルーツの味を伝える

ティオンバル・ホーカーセンターは、環境庁のアンケートによると、シンガポーリアンが最も好きなホーカーセンター2軒のうちの1軒。ここのホーカーの経営者たちのルーツは、潮州、福建、海南島とさまざまですが、2代、3代にわたってお客さんたちとお付き合いをしています。

 

たとえば豆乳の店テック・セン・ソヤビーン・ミルク(Teck Seng Soya Bean Milk、#02-69)。先代が始めて、息子さんが引き継いでいます。「甘すぎない自然な味は日本人にも人気なんです」とご主人。夫婦そろって仲良く営業しています。昼時ともなれば行列ができるフィッシュボール・ヌードルの店、その名もフィッシュボール・ヌードル(Fish Ball Noodle Dry/Soup、#02-13)。「マーケットも併設するティオンバルでは新鮮な魚が手に入りやすいと思う」と列に並ぶお客さんのひとり。

 

狭い店内に大きな蒸篭を積み上げているのは肉まんやあんまんの店ティオンバル・パオ(Tiong Bahru Pau、#02-18/19)。小柄な女性が忙しそうに働いています。「写真、撮ってもいいけど、私は写りたくないですよ」と笑いながらも手は休まることがありません。蒸篭からはホカホカ湯気がたっていました。最後に訪ねたのは仔豚の丸焼きや鶏、鴨がドーン、ドーンと吊り下げられているティオンバル・ローステッド・ピッグ・スペシャリスト(Tiong Bahru Roasted Pig Specialist、#02-38)。こちらも先代から営業しており、「何年だかわからないくらい長く営んでいるよ」とご主人。中国正月ともなれば、飛ぶように売れるという仔豚の丸焼き。祖国の伝統行事を、小さな屋台の経営者たちが支え続けているのです。