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アラブ人大富豪の邸宅 Alkaff Mansion

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ケッペル湾を見渡す広大な緑の公園は今、テロック・ブランガ・グリーンと呼ばれています。マレー語でテロック(Telok)は小さな湾、ブランガ(Blangah)は土鍋のことです。湾の形がとっぷりとした土鍋のように見えたからでしょう。シンガポールがまだテマセック(Temasek)と呼ばれていた時代に付けられた名前です。

 

テマセックは「海の街」という意味。マレーの伝説によると、パレンバンの王子様が11~12世紀ころ、テロック・ブランガのあたりに漂着したそうです。そして森の中で見かけた動物がライオンのように見えたことからこの島をシンガプーラ、つまりライオンの街、と名付けたというのは有名な話。そんなシンガポールの歴史の巻頭に登場するテロック・ブランガ・グリーンの丘を登って行くと、今回ご紹介するアルカフ・マンションが緑の木立の中に現れます。アラブ人の大富豪が建てた瀟洒な邸宅です。

 

イエメンからインドネシアを経てシンガポールへ

アラブの貿易商たちがシンガポールに渡ってきた歴史は古く、1824年、全島の人口が1万683人だった時代にアラブ人は15人住んでいたと記録されています。その多くはイエメン出身でした。インドネシアで財を築き、マレー文化に馴染んだ彼らは、さらにマラッカ海峡を越えたのです。砂漠のイエメンでは食料や生活物資を求めて早くから海外貿易が発展し、インドとインドネシアの間でスパイスやコーヒー、砂糖などの交易にアラブ人たちが活躍していたそうです。

 

アルカフ・ファミリーもそんな貿易商の中の有名な一族でした。シンガポールに来たのは1852年。世界各国からのお客様を歓待するため、丘の上に邸宅を建てました。当時もバラエティー豊かな食事を提供し、フロアではショーを上演、テラスでは音楽が演奏され、時にはアメリカ人、あるいはインド人、中国人、そして日本人も招待されていました。

 

しかし第二次世界大戦の混乱の中、アルカフ一家はこの邸宅から姿を消し、その後長年にわたって邸宅は空き家となっていました。1986年、政府観光局がこの建物を改装し、レストランとして運営されることが決まりました。そして今年から本格的なリストランテに生まれ変わっています。トスカーナ地方出身のシェフが腕を振るうイタリア料理が楽しめます。イクラを載せたアペタイザーや、ウニのパスタ、オーブン・ベイクのポークやビーフ。アジア各国から集められた食材に、あるいは地中海の恵みを受けたオリーブ・オイルやサフランの香りに、海峡を越えて活躍した貿易商たちによる贅を尽くした宴の余韻が感じられます。

 

回教寺院や庭園にもアルカフの名前

アルカフ・ファミリーはこの邸宅のほか、回教寺院や庭園の創設にも潤沢な資金を投資しています。アッパー・セラングーン・ロードにあるマスジット・アルカフ・モスクはそのひとつ。小さい回教寺院ですが、そのエレガントな姿は多くの回教徒から愛されてきました。そしてその寺院からほど近い、ウイロウ・アベニューにはアルカフ・レイク・ガーデンもありました。日本の茶室庭園を模した美しい庭園で、ここに招待された多くの文化人がその庭園についての感想を記録しています。東南アジアを旅した詩人の金子光晴もその一人です。放浪記「マレー蘭印紀行」にはこのような文章をしたためています。

 

「カトンは、シンガポールの東郊で、海沿いの静かなバルコニーをなしている。シンガポールに立ち寄る客たちは、第一の夕の歓待を、日本庭園を模したアルカフ・ガーデンの料亭か、このカトンで受けるのである。すゞ風の尾鰭のながながとなびく海浜の、ところどころにバンガローがある。籐椅子をならべ、テラスにあつまって、別荘や、閑静な住宅の西洋人たちの一家団欒のさまが、浜づたいに手にとるようにみえる。モダーンな支那富豪の邸宅がある――」。

 

アルカフ・レイク・ガーデンはもうありませんが、すず風がそよぐアルカフ・マンションの庭に立つと、金子光晴が見たという籐椅子をならべた別荘やモダーンな支那富豪の邸宅が、この建物に重なって見えるようです。