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幻の紅毛橋 Ang Mo Kio

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シンガポール本島のほぼ中央に広がるアンモキオと呼ばれるエリアは今、市内有数の政府公団住宅HDBが密集したエリアで、典型的な庶民の暮らしぶりが見られるところとなっています。ナショナルデー前日に放送されたリー・シェンロン首相のメッセージが収録されたのも彼の選挙区でもあるアンモキオでした。

 

アンモキオは現在、漢字で宏茂桥(橋)と表記されますが、古い資料の中には红毛桥と表記されているものもあります。キオは橋を意味しており、アンモキオはもともとカラン川にかかっていた橋の名前でした。ナショナル・ヘリテージ・ボードがこの地域の見所を回るアンモキオ・ヘリテージ・トレイル(Ang Mo Kio Heritage Trail)という散策ルートを昨年正式に認定しましたが、その際、昔は地域一帯に9つの橋があったと発表しています。今は川が注ぎこんでいたロウアー・ピアース貯水池の南端に小さな橋が残されているだけですが、これがアンモキオの橋があった場所に最も近いようです。

 

紅毛橋の由来となった、悲劇の伝承

アンモキオのアンモー(紅毛)とは、福建語で欧米人を意味します。なぜカラン川に架かっていた小さな橋が紅毛橋と呼ばれるようになったのでしょう。そこには橋にまつわる悲しい出来事が語り継がれています。貯水池の近くに住んでいた裕福な英国人貿易商ウィンザー卿と夫人のジェニファー・ウィンザーさんの3人のお子さんたちに起きた悲劇でした。

 

1923年、婦人はハリーとポールという2人の男の子と、アンジェラという女の子を連れてアッパー・トムソンに住む友人を訪ねようとして貯水池周辺の森の中を歩いていました。しかし途中でお子さんたちは母親と離れて迷子になってしまったそうです。

 

男の子2人は橋の近くで川の水に流されたらしいことがわかり、橋から2マイル(約3.2キロメートル)も離れた場所で亡骸となって発見されました。ところが捜索の甲斐もなく、アンジェラはとうとう見つかりませんでした。

 

そのころから地元の人々は、橋の近くで女の子の泣き声を聞くようになりました。嘆き悲しんだウィンザー婦人も橋の近くを歩くと、どこからともなくアンジェラの声が聞こえたそうです。それからは毎日娘の魂に寄り添いながら、婦人は一日中、橋の上で本を読んだり編み物をして過ごしたそうです。その婦人も1963年に亡くなりました。すると不思議なことに女の子の声も聞こえなくなったということです。橋の上で半生を過ごしたウィンザー婦人を偲んで、人々はその橋を紅毛橋と呼ぶようになったそうです。

 

この伝説の真偽を確かめる方法はありませんが、まだ開拓途上だったシンガポールでは、川に溺れたり、ジャングルの中で遭難するなどの事故に巻き込まれた人は少なくなかったと言います。

 

川とともに消滅した橋

紅毛橋という名前にはもうひとつの由来があります。この辺りの開発に従事し、多くの橋の建設も手がけた、英国人技術者のトムソン(John Turnbull Thomson)氏が赤毛だったというもの。トムソンの名前は実際、この付近の道路や学校の名前などに数多く使われています。

 

貿易港として発展したシンガポールでは、川が水上交通や物資の運搬に重要な役目を果たしており、昔はカラン川もそのひとつでした。そこに紅毛橋を含めて9つの橋が架かっていましたが、カラン川の支流の多くが埋め立てられたときに壊されたのでしょう。貯水池に最も近かったと思われる橋も例外ではありませんでした。もしかしたら、ロウアー・ピアース貯水池に沈んでいるかもしれません。

 

庶民の憩いの場となっている貯水池周辺には今も、サルやイノシシまで生息する熱帯雨林が残っています。緑の木立の合間から貯水池を眺めると、池の果てに一本だけ残された橋が見えます。その上に広がる真っ青な空――。ウィンザー婦人は天国で3人のお子さんと再会し、手をつないで橋を見下ろしているかもしれません。空を映す貯水池に再び目を落とすと、厳しい自然と闘いながら熱帯雨林を開拓し、川で物を運搬して貿易を営み、街を築いてきた人々の努力と生命の営みが胸に迫ってきます。