AsiaX

昭南忠霊塔跡地を訪ねて Bukit Batok Memorial

Screen Shot 2015-07-28 at 4.30.32 pm

 

「ブキバトの慰霊塔 1942年、日本軍は『昭南忠霊塔』の建立を連合軍捕虜に命じた。日本軍戦死将兵を祭るこの慰霊塔は、先端を円錐状の銅で覆った高さ約12メートルの木造の塔であった。また捕虜らは英軍連合部隊戦死将兵の霊を弔う高さ約3メートルの木造の十字架を昭南忠霊塔のうしろに建てた。『昭南忠霊塔』は1945年、連合軍がシンガポールに上陸する前に日本軍によって取り壊された」。

 

これはブキバト・ヒル(Bukit Batok Hill)の小道に続く階段上にある、記念碑に刻まれた碑文です。

 

ブキティマの戦闘後に建てられた慰霊塔

第二次世界大戦中の1942年、日本軍と連合軍がブキティマ・ヒルで激しい戦闘(Battle of Bukit Timah)を繰り広げた末、2月15日、シンガポールは遂に陥落。英極東軍司令官アーサー・アーネスト・パーシバル中将(Arthur Ernest Percival)が12万5,000人の残存兵とともに、マレー作戦を指揮した日本軍司令官の山下奉文(ともゆき)に降伏宣言したのが、この近くのフォード自動車工場でした。同年、日本軍は連合軍の捕虜に命じて、日本軍戦死将兵たちを祭るため小さな神社を併設した慰霊塔を建立しました。その際日本軍の許可を得て、捕虜たちは連合軍戦死将兵たちのための十字架を慰霊塔の後ろに建てたことも記録されています。

 

その後3年間、日本はシンガポールを占領し、その間植民地として昭南島と呼びました。しかしそれは1945年に終焉を迎えます。連合軍が反撃を開始し、再びシンガポールに上陸する前、日本軍は自らの手でこの昭南忠霊塔と十字架を破壊しました。残されたのは参道とそこに続く階段だけです。階段を上りきったところにあった慰霊塔も十字架も痕跡はありません。慰霊塔に収められていた戦死兵たちの灰は日本人墓地に移されたということです。

 

ブキバト・パークの緑の中にひっそりと佇む長い階段。今その中央には本を開いた形の銅製の記念碑が見られます。この記念碑は1981年、歴史資料としてシンガポール政府観光局と国家遺産庁によって建てられたものです。碑文は冒頭に記したように日本語でも書かれています。

 

昭南島時代の資料を展示する旧フォード工場

連合軍による降伏宣言の舞台となったフォード自動車工場は今、歴史博物館として日本軍と連合軍の戦い、昭南島時代の歴史をとどめる資料や写真、当時使われた生活用品などを展示しています。資料館入口でまず目に入るのはユニオン・ジャックと日章旗です。そして2枚の国旗の間に戦時中の写真が展示されています。ユーラシア大陸の両端、西欧の北方から、そして極東からそれぞれ大陸と海を越えて進軍し赤道直下の島で戦い、多くの命を犠牲にした両国。列強の植民地政策の下、強制労働に駆り出され、搾取されたシンガポールの人々。今、その歴史を実体験として語れる世代の人々は少なくなってしまいましたが、この博物館を訪れると当時の様子を生々しく知ることができます。

 

今年は日本軍占領70周年。昭南忠霊塔跡地やマックリッチ貯水池(MacRitchie Reservoir)奥にある昭南神社跡地など、島内に残された戦跡を訪ねるツアーが不定期で催行されています。中でもこのフォード工場博物館はアッパー・ブキティマ・ロード(Upper Bukit Timah Road)沿いにあって行きやすい場所のひとつです。その裏の丘、ロロン・セスアイ(Lorong Sesuai)に位置する昭南忠霊塔跡地と併せて一度は訪れておきたい場所です。