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日本人コミュニティの中心点「シンガポール日本人会館」

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シンガポールの主要高速道路のひとつPIE(Pan Island Expressway)を西に向かって車で進み、アダムロードへの出口レーンに入ると、左手の木立の合間に淡いピンク色の建物が見えてきます。日本人会の現在の会館が完成したのは、1998年2月。1989年に開催された日本人会の年次総会で新会館建設が掲げられてから9年の歳月を経て実現されたものでした。

 

クラブハウスの変遷

19世紀後半からシンガポールの発展とともに少しずつ拡大していた日本人コミュニティは、戦争を境に一時完全に消滅しました。1953年に日本人のシンガポール居住が再び認められて、居住者数も増加。1957年には日本人会が正式に再発足しました。

 

設立当時のクラブハウスはカトン地区にあった邸宅でした。その後、会員の急増に対応するため、あるいは物件が売却されて退去を余儀なくされて、などの理由で数年おきに転々とすることに。そんな状況を変えるべく、クラブハウスの建設を、という声が1970年代初めに出ましたが、資金の目処が立たず結局見送られました。

 

1983年、日本人会はついに現在の会館が建つアダムロード沿いの土地を購入しました。資金は日系企業からの借入れによって調達されました。かつてアメリカンスクールの寄宿舎があった場所で、その建物をそのままクラブハウスとして利用することになりました。

 

1980年代は、高度経済成長を経て日本が勢いづいていた時代。シンガポールへ進出する日系企業の数も増え、やがて日本人会でも急速な会員数の増加に設備の面で対応しきれなくなっていきました。

 

シンガポールで存在感を増しつつあった日本人コミュニティにふさわしい会館を――1989年、会館の建て替えを検討する委員会が設置されました。しかし、日本人学校を管理する立場として、小学部・中学部の増築が急務となり、建て替え計画は一時中断。小学部チャンギ校の校舎完成を控えた1995年1月に改めて新会館建設準備委員会が設けられて、計画が本格化しました。

 

 

シンガポール日本人会にふさわしい会館を

新会館建設にあたっては、日系企業に負担をかけないよう、会員から建設協力金を募ることになりました。ある程度まとまった額になったところで、まずは会館を建てて、借入金を先々返済していくことに。せっかく寄付をした会員が、新会館の完成を待たずに帰国してしまうという状況を極力避けるための策でした。

 

新会館のコンセプト作りは、建設準備委員会が最も力を入れた部分。専門家のアドバイスを受けつつ、会員にもアンケートを実施。さらに各委員が会員の声を直接拾い、日本人会にふさわしい会館の形を模索しました。

 

検討を重ねた結果、アクセスが便利な1階には家族向けにファミリー・レストランや、キッズルーム、クラブショップ、受付など、2階にはボールルームや会議室、図書室、事務局オフィスなどを配置。3階には本格的な音楽演奏会も可能なオーディトリアムや、スタジオ、クッキングルーム、クラスルームなどカルチャーセンターとしての機能を集約。4階にはラウンジやハイクラスな和食レストランなど、大人が落ち着いて過ごせる施設が配されました。診療所は、正面玄関を入ってすぐの専用エレベーターで直接行ける形になりました。

 

1996年9月、新会館の地鎮祭が行われ、いよいよ工事開始。その様子は会報の『南十字星』で毎月報告されました。掘削工事の様子や進捗状況、地盤のこと、コンクリート打設のこと、構造設計についてなど、貴重なレポートを毎月書いていたのが、設計を担当した日本設計の小林利彦氏。当時会員の多くが、このレポートを通じて新会館建設を見守りました。

 

1998年2月、ついに新会館が完成。同年5月に開催された落成式には、当時副首相だったリー・シェンロン氏や、日本から福田康夫氏が出席しました。

 

会館は、その後幾度かの改装工事を経て、まもなく完成から15年を迎えます。時代やニーズの変化とともに少しずつ姿を変えつつ、これからもシンガポールの日本人コミュニティの中心点であり続けることでしょう。