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南洋の海がふるさと、マレーの人々を知る「マレーへリテージセンター」

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西はアフリカから東はフィリピンに至るまで、海で繋がった領域に暮らす人々は、広義ながら皆マレー民族だ、とマレーへリテージセンター(MHC)のアシスタントディレクター、ノサリーン・サレイさんは言います。長い歴史を持つ彼らは、海の民として陸で暮らさなかった人々や、漁業や海上貿易に携わっていた人々が大半で、アンダマン海や南シナ海にある港町には、自然とマレー人の家族が相当数暮らし、シンガポールも、その港町の一つだったのです。

 

カンポン・グラム、「グラムの木のある集落」

19世紀初頭のシンガポールは、ジョホール王国(現マレーシア・ジョホール州)のサルタンの支配下で漁民200人ほどが住み、シンガプーラ(Singapura)と呼ばれました。1819年にスタンフォード・ラッフルズ卿が東インド会社の貿易拠点を確保するためにこの地を訪れ、その歴史が大きく変わります。ラッフルズ卿は、地の利点を素早く見抜き、即座にジョホール王朝のサルタン、フセイン・シャーと交渉、この島にイギリスの商館を建設することを承認させ、領有権を得ました。

 

その後、サルタンであるフセインのためにイスタナを建て、周囲の広大な土地をサルタンのものとしました。そしてこの地はカンポン・グラムと呼ばれ、1840年代に完成した典型的な英国コロニアル風建物の旧イスタナこそ、現在のMHCの建物です。

 

20世紀の初頭、勢力の衰えとともにサルタンはシンガポールでの公式な地位を失い、建物と土地の所有権も植民地政府に帰属し、規模も縮小されました。第二次世界大戦中の日本の占領下時代、マレー優遇政策がとられる中で、サルタンの親戚筋が多くここに移り住みました。

 

1990年代にアラブストリート界隈の再開発がすすみ、1999年4月にシンガポール政府がイスタナ・カンポングラムをマレーヘリテージセンターとして再開発することを発表。当時、サルタンの血を引く80名もの家族がここに住んでいたそうです。

 

有形無形のマレーの世界を丸ごと体感できる場所

国家遺産庁(NHB)の管理の下、2005年にマレーヘリテージセンター(MHC)としてオープンする以前は、やや寂れた雰囲気で人々にとっては遠目に眺めるだけのイスタナでした。今年9月、300万シンガポールドルをかけて、装い新たに再オープンしたMHCは、これまで以上に建物やその前の庭園などが美しく手入れされ、博物館としての展示物、展示の手法にも趣向を凝らしています。また、最新鋭の設備を備えたシアターや多目的スペースなども増設され、広い庭園でも定期的に各種イベントが催されています。

 

旧イスタナの建物では、マレーの家屋の風習に習って靴を脱いで上がり、まずは2階の展示室へ。マレー民族が分布する地域を示す巨大な地図と、19世紀以降のシンガポール市街地の変遷がわかる展示があります。隣のシンガポールにおけるマレー民族を紹介する展示室に進むと、シンガポールの国宝とされるサルタン一族の宝物などが間近に見れたり、人々の伝統的な陸上のライフスタイルや、ブギスハウス(水上生活者の家)、メッカへのハッジ(巡礼)、海上貿易の様子などが続きます。

 

階下へ下りると、近代以降の彼らの文化面での活躍が紹介されています。印刷会社が集まり戦後まで出版の中心を担ったカンポン・グラム、1920年代まで大衆の娯楽だったマレーオペラ、そこから発展した映画産業、また、国歌を生んだ著名音楽家ズビル・サイドなど、インタラクティブな展示を通して、驚きと共にその豊かな芸術性を垣間みれます。

 

「国内外から訪れる人々がマレー民族への理解を深め、マレーのルーツを持つ人には、自分の民族に誇りを持つ機会となれば。MHCは、アジアにおけるマレー文化を伝承するリーダー的機関となることを目指しています」とサレイさん。イスタナ時代が今に蘇ったような堂々たる佇まいのMHCは、マレー特有の懐の深さと温かみを持って、多くの人々を迎え入れていくでしょう。