現代的な町並みが常に注目されがちなシンガポールですが、この小さな島の歴史は、少なくとも14世紀にまで遡れます。その700年の歴史と共にあり、現在は市民の憩いの場となっている標高わずか163mの丘、フォート・カニング・パーク(Fort Canning Park)。その名を時代と共に変えながら、ここに暮らす人々を見守ってきました。
「禁じられた丘」、王族たちへの畏怖と敬意をこめて
この丘についての最も古い記述は、16世紀に書かれた東南アジアの歴史書『スジュラ・ムラユ』に見られます。1299年にスマトラの王子サン・ニラ・ウタマがシンガポールに辿り着き、後に4代にわたる王とその家族がこの丘で暮らし、王族たちが沐浴した池や、神聖な墓所がありました。長年地元の人々が立ち入ることは禁じられたことから「禁じられた丘(Forbidden Hill)」と呼ばれていました。外敵の攻撃によりシンガポールから逃れた最後の王で、後にマラッカ王国を築き1420年頃に亡くなったラジャ・イスカンダル・シャーがのちにこの丘に埋葬されたと言われており、そのケラマ(keramat、墓)は、寺院として今でも人々からの信仰を集めています。1984年から始まった発掘作業で、当時の王族の装飾品だと考えられる黄金の腕飾りやガラスなどの物証が数々見つかるなど、彼らの足跡が確認されています。
最後の王が去った後、支配者を失ったこの丘は、シンガポールに1814年に上陸したスタンフォード・トーマス・ラッフルズ卿に再び見出されました。
リーダーにビジョンをもたらし、司令塔となった近現代
ラッフルズ卿はこの丘を「シンガポール・ヒル」と呼び、丘の周囲のジャングルを切り開いて、マラッカ海峡からシンガポール川を見渡せるこの素晴らしい場所にバンガローを建てました。後に総督邸宅となるここから都市計画を考え、マレーのリーダーたちと領土の借用権に関する話し合いを持ったり、祝典などの行事が開催されました。
その後、イギリスの貿易拠点としての利権を守るために軍の所有物となり、1860年に頂上付近の土地がならされ、地下に火薬庫もある銃や追撃砲が備えた城塞となりました。港が見渡せて各国の船の往来を確認することができたこの丘には、その情報を知らせる旗ざおや灯台、報時球などが設置され、人々の交信センターとしての役割も果たし、「フラッグ・ヒル」や「ガバメント・ヒル」とも呼ばれていました。
屋外イベントが随時開催されているフォート・カニング・グリーンと呼ばれる広い芝生の斜面は、その周囲を囲む壁に埋められた数々の墓石からわかるように、以前はキリスト教徒の墓地でした。200年近くも前、夢や野望を持ってはるばるやって来てこの地で永眠についた人々のそばで現代の我々が憩うなど、あちらこちらで今昔が行き交うのがこの丘の特徴。往時と変わらぬ熱帯の濃い緑と鳥たちのさえずりに囲まれ、シンガポールの歴史の小宇宙がここにはあります。