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埠頭からシンガポールの変遷を眺めるクリフォード・ピア

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1930年頃人口約55万人程度だったシンガポールは、50年代にほぼ2倍にあたる100万人、60年代後半には200万人まで増加しました。この人口推移からもわかるように、現在のシンガポールの基盤を築く経済成長を遂げた近代がありました。急増した人口の大部分は、その恩恵にあずかるべく夢と希望を胸に労働力として来星した移民たちであり、その多くはこのクリフォード・ピアから最初の一歩を踏み出したのです。

 

 

紅いランタンが導いたシンガポールの入り口

アールデコ調のジグザグ模様や、直線の幾何学的パターンを多用した美しいクリフォード・ピア。設計を担当したのは、旧英国海峡植民地政府のフランク・ドリントン・ワード、建設は、ガーデン・バイ・ザ・ベイやチャンギ刑務所を手掛けたウォー・ハップ建設会社が請負いました。老朽化したジョンストン・ピア(1854-1933年)を大掛かりに改装し、1933年の開港当時の広さは、長さ約73m、幅約33.5m。航海の目印に埠頭に灯されていた赤いランタンから、通称「紅いランタン埠頭(中国語:紅灯码头、マレー語:lampu merah)」ともいわれていました。
A.L.ジョンストンというシンガポールに入植したイギリス人ビジネスマンで商工会議所を創設した人物にちなんでジョンストン・ピアと呼ばれていましたが、その人望の厚さからクリフォード・ピアと名前が変わることに反対する人々も多く、1933年の開港当初、多くの商人がボイコットしたほど。その名の由来となった旧海峡植民地の総督ヒュー・クリフォード卿も信任が厚かったといいますが、位も高くやや遠い存在だったようです。

 

 

 

間もなく、クリフォード・ピアは人や荷物の往来の絶えない埠頭として賑わいました。第二次世界大戦が始まると、インドネシアなどの外国に逃げようと船を待つ人々を見送り、沖で待ち受ける旧日本海軍を前に海へ出るかどうかの決断を迫られる事態など、逼迫した歴史にも立ち会っています。
戦後から60年代後半まで、つまりコンテナ輸送が始まるまでは、大きな船から荷物を小分けして運ぶジャンク船が行き交い、クリフォード・ピアの周りは、夜になればホーカーが立ち並び、娼婦たちを見かけるような港ならではの雰囲気だったそうです。
その後、タンジョンパガーの港に貿易港の役目を引き渡してからは、クス島などの近郊の島々や観光のための遊覧船の発着場所となりました。

 

 

クリフォード・ピア開港80周年

 

マリーナ・ベイを貯水池とする国策のもと、マリーナ・バラージのダムの建設、サウスマリーナ・ピアの完成を待って、2006年に埠頭としての歴史に幕を降しました。その後の再開発を経て、今は建物の外観が昔日の名残りを伝えるのみで、高級ホテルとして知られるフラトンベイホテルの一部となり、今も各国からのゲストを日々迎えています。
今年で開港80周年を迎えたクリフォード・ピアは、それを記念して「クリフォード・ピア:人々の心に残る場所」展をフラトンベイホテルのロビーで開催。その歴史と共に人々の回想録が展示されていました。
30年間埠頭の管理人だったレイモンド・ホーさんによると、埠頭はまるで人生劇場、ギャンブルやアルコール中毒の夫に悩まされた妻や家族が海に身を投げる場所としても知られていたとか。広東語や福建語を話す年老いた女性移民たちが、寄港した船の煙突掃除など過酷な労働をしていたことなど、「我々の祖先である移民たちがどれほど苦労した50、60年代があったことか。現代の生活がいかに恵まれているかに気づかされる」とも。

 

 

ホテルのラウンジが「ランディング・ポイント」と名付けられた粋に感心しながら、水辺を眺め往時に思いを馳せると、どこかから雑踏の音や汽笛が聞こえてきそうです。