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シンガポールの歴史が眠る丘。保存危機の「ブキ・ブラウン墓地」

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マクリッチ貯水池の南、丘陵地に広がる華人墓地「ブキ・ブラウン墓地」には、シンガポールの礎を築いた先人や戦争犠牲者らが眠っています。しかし、広さ233ヘクタール、10万墓が安置された広大な墓地は、存続の危機にさらされています。2011年に、高速道路PIEや住宅開発用地になることが発表されたためです。工事はすでに始まり、PIEの通る区域内の3,442の墓の掘り起こし作業が昨年末から進められています。

 

 

一方、保存運動も活発に行われています。毎週末行われているヘリテージウォークツアーに参加し、ガイド役のクレア・ローさん、スティーブン・トンさんの案内で墓地へ入りました。中には、ガジュマルの巨木や緑の下草に抱かれた静かな丘が広がっていました。

 

シンガポールの偉人たちが眠る

古い墓石の数々は、福建、潮州など出身地によって姿形が違います。夫婦や家族は近くに埋葬されているものが多く、夫婦一緒の場合、向かって右に夫、左に妻が土葬されています。墓石の背面には、故人を安らかに見守る山を模して土が盛られたものが多くありました。雨水を手前に流す溝が掘られているのが特徴です。

 

 

「チュー・ブーンレイ」「チュー・ジューチャット」のような、通りや地名に名を残す偉人たちの墓もありました。中でも、丘の一番上、約600平方メートルの最大敷地面積を誇る墓は、オン・サムリョン氏(1857-1918)のもの。彼の名も、MRTファラーパーク駅近く、「サムリョンロード」として残されています。鉱山やゴム農園で働く人材を供給する会社などを経営して多大な影響力を持った人物です。シーク教徒の姿をした2人のガードマンの石像、2頭のライオンの石像が彼を見守ります。長年ジャングルに覆い隠されており、2006年に歴史学者によって再発見されました。

 

日本占領期の影響

また、リー・クアンユー顧問相の祖父、リー・フンリョン氏(1871-1942)の墓も安置されていました。リー・フンリョン氏はインドネシアとの間で蒸気船を運行する船会社の取締役として財を成し、ラッフルズ・インスティテューションなどへの多額の寄付でシンガポールの教育を発展させました。驚くことに、没年として日本の「皇紀」が刻まれていました。「彼が亡くなった時期が日本占領時代だったことが理由」と、ガイドのスティーブンさんは解説しました。

 

ブキ・ブラウンは1942年2月、日本軍と英連邦軍の戦場になった場所でもあり、犠牲になった兵士や民間人たち、戦争功労者も埋葬されています。こうした一つ一つは、日本とシンガポールとの関わりを現代に残す貴重な記憶です。

 

 

 

 

「忘れられた墓」

都市再開発庁(URA)などによると、墓地は初の華人向け公営墓地として1922年、英植民地政府によって開設されました。しかし、1944年に埋葬地がいっぱいになり1973年に閉鎖。多くの墓は手入れされず、ジャングルに覆われていきました。子孫からも存在が忘れられた理由の一つは戦争です。クレアさんによると、当時の混乱や、年長者の死亡で手がかりを失い、先祖の墓の場所がわからなくなった家が多いとのこと。再開発計画で逆に活発化する歴史学者らの調査の成果により、先祖との再会を果たした家族も多いといいます。

 

 

クレアさんは、「ブキ・ブラウンは移民、海洋貿易、国際結婚、植民地政策、戦争など、多層な歴史が詰まった場所。一度失われたらもう取り戻せないのです」と話します。今後の墓地の行方は不透明ですが、シンガポールで暮らす我々にとって知っておくべき歴史が眠る土地です。誰でも立ち入り可能ですが、ツアーの機会を利用すれば、より深く理解できることでしょう。