お洒落なレストランやショップ、スパ、オフィスなど70軒近い商業施設を擁したタングリン・ビレッジは、ボタニック・ガーデン向かい側のホーランド・ロードを挟んだ一帯を指します。サッカー場120面分、86ヘクタールもある土地は、レストランやショップが多く立ち並ぶデンプシー・ヒルを中心としたデンプシー・クラスター、1911年に建てられたセント・ジョージ教会や幼稚園、レストランが点在するデンプシー・ロード沿いのミンデン・クラスター、そしてその奥に広がるローウェン・クラスターの3ヵ所の地区に分かれ、これらを総称してタングリン・ビレッジと呼ばれています。
ナツメグ農園に始まり軍の施設として歴史を刻む
ナツメグ農園が閉園し数年後の1860年、旧英国植民地政府が当時の通貨で3万ポンドを投じ軍隊の宿舎群として再開発、タングリン・バラックと名付けます。1棟に50人が住むことができる宿舎には、多い時で合計700人近い軍人が居住していたといいます。建物はシンガポールで発達したコロニアル様式で大きな屋根を付けて日陰部分を多くとり、また自然吸気で風通しを良くした宿舎でした。
第一次世界大戦中、インドにおけるイギリス植民地支配からの独立運動の影響がシンガポールにも波及します。1915年2月15日、英植民地政策に反感を持つインド人兵がタングリン・バラックをターゲットとした反乱を起こし、イギリス兵を含む10数名を殺害。この反乱で、当時捕虜としてバラックに捕らわれていたドイツ兵300人余りが解放され、反乱者とドイツ人捕虜合わせて約800人余りが街に溢れかえる事態となりました。また第二次世界大戦中シンガポールが陥落した1942年2月15日以降、日本軍が占拠。捕虜となったイギリスやオーストラリアの軍人が、チャンギ刑務所に送られる前に一時ここに収容されたこともありました。
その後1972年から1989年までの17年間、そのバラックが位置したデンプシー・クラスターがシンガポール人男子の兵役訓練のために使用されます。かつて多くの若き青年が両親に付き添われ、不安な面持ちで入隊のために訪れた場所でもあったのです。
タングリン・ビレッジとして開発
今でこそシンガポールで話題のお洒落なスポットとなりましたが、デンプシー・クラスターから北東にあるローウェン・クラスターまでの道のりには当時の面影が残る空き家が多く、少し散歩するだけでこの地域がどのように変化してきたのか手に取るように分かります。リノベーションが施され、快適な空間に生まれ変わったカフェに腰を下ろして熱帯雨林の風に吹かれると、時の移ろいとともにタングリン・ビレッジが辿った歴史を肌で感じることができるかもしれません。