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1月からEPの発行厳格化、どうなる?シンガポールの日系企業

EP発行の新基準、今年7月以降から徐々に影響?

今年1月から、シンガポールの就労ビザのひとつであるエンプロイメント・パス(Employment Pass: EP)の発行に関する新基準が適用された。これにより最低給与額は従来の金額から大きく引き上げられ、取得はより難しくなっている。新基準の適用で、実際に日系企業の現地採用はどのような影響を受けており、今後どうなるのか。シンガポールの日系人材紹介会社3社および、日系企業2社からシンガポールの人事・雇用問題に詳しい方々にお集まりいただき、現在の状況および問題点などについて語ってもらった。

 

永見 亜弓さん
学生の頃から外食チェーン店での店舗責任者・IT企業のスーパーバイザーなどを経験し、2007年にJAC Recruitment Singaporeに入社、日本人候補者向けコンサルテーションを担当する。メイン業界はメーカー・商社(日系・外資問わず)。2012、2013年には年間MVPコンサルタント受賞。2013年からはプレイングマネジャーとして日本人部門をとりまとめつつ、業界問わず企業・求職者へのコンサルテーションを行っている。

 

北川 聡さん
2011年に来星。株式会社ウィルグループの海外戦略部部長および、シンガポールの人材紹介会社Good Job Creationsの代表を務める。ウィルグループ傘下の海外4ヵ国8事業会社の約200名をダイレクターとして統括している。

 

 

 

小林 佳代さん
新卒で株式会社リクルートに入社後、約3年求人媒体の営業に従事。その後カナダ留学を経て2012年3月に来星。企業向け人材開発分野の営業を経験後、2015年6月にRGF HR Agent Pte. Ltd.(リクルートシンガポール法人)に入社。現在は、企業向けのリクルートメントアドバイザー兼転職者向けキャリアアドバイザーに従事している。

 

 

丸茂 修さん
神奈川県横須賀市出身。日本の建設会社で中東に7年滞在。その後、東南アジアに移り、まずマレーシアにマハティール氏が首相就任後の1980年代初頭に着任、シンガポールには最初のMRTが運転開始した1980年代後半に着任。2002年より当地ケルビン・チア・パートナーシップ法律事務所でコーポレート・アフェアーズ・ディレクターとして、日本グループを主宰。

 

 

下垣内 秀晃さん
2004年に東陶機器株式会社(現TOTO株式会社)入社。2006年4月より、人事部東京人事グループでTOTOグループの採用企画やTOTO本体の採用企画・推進に従事。2011年6月より、人財開発本部グループ支援室で国内グループ会社の人事制度の企画などを担当。2016年4月に来星、TOTO Asia Oceania Pte. Ltd.のBusiness Planning Sectionで、アジア域内におけるグループ会社の人事制度の企画などに携わる。

AsiaX:人材省(MOM)がEP発行基準となる基本月給の最低額を引き上げるのは2014年1月以来になります。今回MOMが新基準を適用する背景について教えてください。

 

丸茂:シンガポール政府は2010年以降、自国民の雇用を確保することなどを目的に、外国人に対するビザの発行を抑制するようになりました。外国人労働者は、シンガポール人にはない高度な技術・知識を持つ人材を確保するために受け入れる、という考え方で、EPの審査にあたっては申請者の学歴や職歴、給与水準などが考慮されています。
またMOMが最低給与額を引き上げる理由については、外国人労働者の質を維持するとともに、シンガポール人の給与水準の上昇に合わせることが目的とされています。

 

AsiaX:今回の新基準の適用により、企業側の人件費負担はより大きなものになり、中には駐在員の人数を減らした企業もあるようです。実際に、企業側からはどのような反応が見られますか。

 

永見:昨年に新基準が発表されてから、EP取得に関する問い合せは増えています。またEP関連のセミナーを企画したところ、30~40人の枠が30分で埋まってしまうなど、シンガポールの日系企業からの関心の高さは相当なものですね。
EP取得のための最低給与額はこれまでも上がってきましたが、今回の上げ幅は一段と大きく、2,000Sドル以上月給を引き上げなければならなくなるケースもあり、企業への影響も大きなものになります。また日系、外資系企業ともに、人員確保・獲得への影響は大きいと感じていらっしゃるように思います。
現時点では、シンガポールで仕事を探す人の数が減り、企業の日本人採用ニーズが低下しているという実感はあまりありません。ただし今年の7月くらいから、EPの更新ができなくなるケースが増え、徐々に影響が出てくるのではないかと見ています。また今後は、Sパス(注1)やDPの審査基準も変更になる可能性もゼロではないため、注視していく必要があるでしょう。

注1:2004年から導入された就労ビザで、取得のための最低給与額は月額2,200SドルとEPに比べ低い。4年制大学を卒業していない、または管理・専門職以外の場合、Sパスを取得して就労することが多い。シンガポール人の雇用人数に応じて、企業ごとにSパスの発行数が決まる仕組みになっている。

小林:日本人の採用ニーズの高い営業や総務職、秘書職などの場合、これまで月額4,000~4,500SドルでEPを取得できていたのが、4,500~5,000Sドルといった具合にレンジが上がりました。年齢とともに最低給与額は上がっていきますので、30歳以下の人材の採用を強化する日系企業が増えているようです。特に、有名大学の新卒または20代の採用ニーズが高く、日本で実務経験があって即戦力になる30代のニーズが若手に移行する傾向にあると思います。
新基準は、シンガポール人を多く雇用しSパスを使える比較的大きな企業にはあまり影響しませんが、シンガポールにある日系企業の8割は人数が少なく、Sパスの枠もないことが多いのが現状です。新基準の適用で大きな影響を受けることになります。

 

北川:当社は新基準が発表されたとき、日系企業を対象に今後の人事戦略についてアンケートを行いました。有効回答を得られた約50社のうち、現地採用の日本人に対して、EPを取得するためならいくらでも給料を上げると答えたのは約10社にとどまり、約20社は日本語が話せるシンガポール人に採用を切り替える、または日本語を使わなくても業務をこなせるようにする方針と回答しました。後の20社は、予算内での採用にとどめると答えています。
これから短期的には、人材マーケットの混乱が予想されます。現地採用の日本人がいなければ業務に支障が出るような企業では、20代の若手にいきなり月給5,000Sドルを支払う企業も出てくるでしょう。そういった事例を見て「不公平だ、私も転職する」と思う人もいると思います。またEP取得者の給与だけを引き上げれば、当然ながらシンガポール人やDP・PR保有者から不満の声も出てきます。
ただこういった混乱は一時的なもので、やがてシンガポールにおける日本人の給与相場は上がっていくと思います。

 

丸茂:2011年頃、EPを取得するための最低給与額は約2,500Sドルと、現在を大幅に下回っていましたが、年々増加していますね。
今回の新基準の適用により、日系企業は嫌でも職務に合わせた給与体系を導入していかざるを得なくなるでしょうね。金銭的な面だけでなく、雇用や働き方をめぐる文化の問題にもなってくると思います。
また新基準を見ると、日本で偏差値の高い大学を卒業した人の基準額のほうが、高校や専門学校を卒業した人より低いというのも興味深いです。

 

下垣内:高校や専門学校を卒業した人を採用するなら、専門性やマネジメントスキルなど、新基準に見合う人材を連れてきてほしい、というのがシンガポール政府の考え方なのでしょう。
新基準に合わせて、社内の賃金制度を見直す企業もあるかと思いますが、「日本人だから」「日本語が話せるから」という理由だけで賃金を上げるのでは、現地社員からの理解は得られません。これまでは、外資系企業より比較的低い賃金で人材を採用し、育成していくというスタンスの日本企業が多くありました。今後は、この業務・役割に対してこの金額を払うべきという、日本以外では当たり前の職務給について、真面目に考える良いきっかけになるのではないでしょうか。
これはシンガポールに限った話ではなく、グローバル全体でそういう流れになっていると思います。この流れに対応できなければ、日系企業だけが取り残されてしまうのではないか、とも感じています。

AsiaX:MOMのツールを使い、新基準を適用した場合のEP申請資格の有無を診断することが昨年11月から可能になりました。シンガポールで働いている日本人からは、このツールで調べたところ自分の最低給与額が大きく上がり、ビザが更新できなくなると過剰反応する向きもあったように思います。果たして今後、日本人のシンガポールでの就業機会はどうなっていくのでしょうか。また求職者の動きについてはどうご覧になっていますか。

 

北川: 5年、10年といった長期的な視点に立てば、日本人がシンガポールで働く機会が減っていくことは避けられません。なぜならシンガポール人の雇用を確保することが、新基準の一番の狙いですから。実際に企業側では、シンガポールにあるコールセンターを、マレーシアやタイといったビザの取得しやすい国へ移す動きも出ています。

 

永見: ここ数年の求職者の動きとしては、国ベースで就労を希望する人は減り、求人案件ベースで就労を希望される方が増えてきました。昔は「日本でいい仕事がないから海外で」と考える方もいらっしゃいましたが、シンガポールでの就労については年々日本より厳しさを増しており、今はそういった考えの方は減ってきています。
また仕事を選ぶ上では、キャリアの軸がより大事になっています。実際、「この仕事なら他の国でもできる」という理由でいろいろな国での就労を検討される方が増えており、結果的に日本に戻って働くという人もいらっしゃいます。今の日本は景気も良く、自分がやりたい仕事にも就きやすいのです。


 

新基準の適用でSパスをめぐるトラブルも

AsiaX:新基準の適用により、企業側ではさまざまな問題が起きています。EPを申請したものの取得できず、内定を取り消しにするケースもあるようです。このほか、新基準の適用に伴って起きている問題点について、どのようなものがありますか。

 

北川:Sパスをめぐるトラブルが見受けられます。Sパスの枠はあるものの、これまでEPの取得が比較的簡単だったので使い慣れていないという企業も少なくありません。シンガポール人5人を採用すればSパス1枠が与えられると思っていたのが、実際は6人につき1枠だったというケースもあります。採用を決めたもののSパスの枠がなく、内定を取り消さざるを得ないといった事例も出ており、当社も企業側にはSパスの枠数についてきちんと把握してほしいとお伝えしています。

 

永見:その企業に勤めていたシンガポール人が退職したことで、Sパスの枠が減ってしまうケースもあります。新しくシンガポール人を雇ったとしても、MOMがデータを更新するまで数ヵ月のタイムラグが発生するため、すぐには枠を増やせず、採用を先延ばしにせざるを得ないこともあります。

 

AsiaX:今後の人材紹介会社のあり方についてお聞きしたいと思います。新基準の適用に伴う人件費の増加などを背景に、シンガポールでの人材採用が困難さを増すと予想される中、試用期間を延ばしたり、紹介料を下げたりといったことは考えていらっしゃるのでしょうか。

 

小林:「日本人なら誰にでもできる」といった仕事は、これからシンガポールでは減っていきます。「候補者の専門性や強みは何なのか?」「候補者の強みをどう活かせるのか?」「シンガポールのマーケットで何が起こっているのか?」「企業のニーズに対して人材がいるのかいないか、どのくらい採用が難しいか?」「難しい場合はどんなソリューションが考えられるか?」といった点について、コンサルタントがしっかりと把握して企業と候補者に伝えることが、これまで以上に大切になってきます。
新基準の適用により、今後の日本人採用のニーズは専門職やマネジメントに偏る事が考えられるので、「この業界のハイパフォーマーはどの会社の誰」「どこでどういう経験を積んだ人材は価値が高い」など、マーケット内の企業や人材に精通した、ヘッドハンティングができるコンサルタントの需要が高まるでしょう。価値の高い専門職やマネジメント人材を紹介できることが、人材紹介会社のあるべき姿となっていくでしょう。

 

北川:案件1件ごとの重要性は今後ますます高まっていくでしょうね。エージェント側には、企業と求職者のマッチングの精度がこれまで以上に求められるようになります。

 

下垣内:人が仕事を通じて生み出す価値は、どの業界・企業で働くかによって左右されることがあります。良い人材が成長分野に転職するよう促したり、適材適所を実現したり、人材の再配分によって、社会を更に活性化することが紹介会社のミッションだとするならば、新基準の適用はそれを突き詰めていくいい機会なのではないでしょうか。

日系企業のグローバル化につながる動き
新基準の適用は変革のチャンスに?

 

AsiaX:企業と働き手、そして人材紹介会社それぞれが変わっていかなければならないということですね。最後にコメントをお願いします。

 

永見:現在シンガポールで働いている方は、まず今の勤務先で自分の価値をしっかり高めていくことが大切だと思います。企業側は、これまで以上にしっかりした人事計画を策定することが求められています。新しく人を採用したために、コストの問題で既存スタッフのビザが更新できなくなったり、既存スタッフ(特にビザが不必要なシンガポール人、PR保有者など)が新人との給与差に不公平感を感じ、その職場を去ってしまったりしては本末転倒です。

 

小林:今後の企業側のニーズについては「やる気のある20代の若手および高学歴バイリンガル人材」および「30代以降のマネジメント・専門職」の二極化が進むことが考えられます。
こうした中、被雇用者の方は「マーケットの中で自分の強みは何なのか?」「自分は今の会社にどう貢献できているのか?」「シンガポールで自分は今後どのようなキャリアを築けるのか?」といった点について考えることが大事です。自分が勤務先にとって「やめて欲しくない人材になっているのか?」と自問自答しながら、サバイブしていく必要があると思います。

 

北川:EPの取得は難しくなりますが、一方で日本人でなければできない仕事が多くあることも事実です。シンガポールで働く日本人の方は、ビザが取れず働けなくなるのではないかと不安に思う必要はそれほどないのではないかと考えます。
また新基準の適用は、日系企業のグローバル化につながる動きであり、シンガポール人から選ばれる企業になるにはどうすればいいかという視点からすれば、中長期的にはポジティブな影響を与えてくれるのではないでしょうか。シンガポール人をマネジメント層に登用する日系企業が増えることも予想され、数年後にはシンガポール人にとって働きやすい日系企業が増える可能性が高いのではないかと思います。
日系企業は外圧がなければなかなか変われないところがあり、今回の新基準の適用は変革のチャンスとも捉えられます。

 

下垣内:優秀な人材をどうやって採用し、確保するのか、例えば、ジョブローテーションによる人材育成などを含め、それぞれの国の文化・風習にあったやり方を見つめ直す必要が出てきています。日系企業はこうした変化を受け入れながら、今まで以上に、シンガポールの経済に貢献できるよう、成長しなければならないと感じています。
これまで日系企業は、長期安定雇用およびキーマンの自社育成を強みと考えてきました。しかし今回のEP発行基準の見直しにより、採用時の処遇の水準が高まれば、これまでの考え方を変えなければ競争力を維持できないという懸念も出てきます。採用時に、候補者の能力や経験をシビアに評価し、給与・福利厚生の条件について交渉する力も企業側には求められるでしょう。

 

丸茂:こうした動きを見ていると、シンガポールの日本企業における雇用のあり方は、今後海外の水準に合わせていかざるを得なくなると感じます。
私がシンガポールに来た20数年前、日本人の給与水準はシンガポール人の2倍くらいありました。それから日系企業はどんどん価値を落としていて、今は平均収入もシンガポールの平均を下回っています。今回のような変化をかんがみながら日系企業が凋落するのを食い止め、これからどう変わっていくのか、興味深く見ていきたいと思います。