2016年5月16日
戦時の記憶を今に伝える 地下要塞「バトル・ボックス」
1824年に始まったシンガポールの英国植民地時代、軍事拠点として重要な役割を果たした「フォート・カニング・パーク」。時を経て憩いの公園へと姿を変えたなだらかな丘の中腹に、重厚な鉄の扉があるのをご存知でしょうか。穏やかな周囲の緑から切り取られたように存在するこの扉は、第二次世界大戦時にシンガポール英連合軍が使用していた地下要塞への入り口。「バトル・ボックス」と呼ばれるその場所は、現在もなお当時の面影を残しています。
シンガポールの陸・海・空すべてを統括した攻防戦の中枢
この地下要塞が建設されたのは1930年代後半のこと。将来の戦争を見越したイギリスにより、イギリス領マラヤとシンガポールを防衛する軍隊の地下指令室として建設されました。
実際に指令室の役割を担ったのは、1942年2月7日から2月15日にかけて行われたシンガポールの戦い(Battle of Singapore)でのこと。1941年に「マレー作戦」のもとマレーシアに侵攻した日本軍は、破竹の勢いでマレー半島を南下しシンガポールに到達します。これを食い止めるべく英連合軍司令官のアーサー・パーシヴァル中将を中心とした司令部がこの要塞に設けられたのです。
当時、英連合軍の兵士数が約12万人であったのに対し、日本軍は約5万人。数の上で圧倒的に英連合軍が有利とされており、また密林に覆われた地理的条件から、シンガポールは難攻不落の要塞と考えられていました。しかし山下奉文中将率いる日本軍は陸・海・空すべてにおいて前線を突破。ブキティマ地区を英連合軍の弾薬・燃料とともに占領したこと、加えて水源の支配権を得たことにより、英連合軍をじわじわと追い込んでいきます。
そして1942年2月15日の朝、日本軍は英連合軍の最終防衛線を突破します。食料も弾薬も底をつき始めていた英連合軍。パーシヴァル中将は他の司令官たちと協議したのち、日本軍に降伏することを決断します。山下大将とパーシヴァル中将が相対した正式な降伏文書への調印はアッパー・ブキティマにあったフォード自動車工場(現在の旧フォード工場記念館)で行われましたが、降伏の決断が下された場所こそがこのバトル・ボックスでした。