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熱帯綺羅

2012年11月19日

南洋の海がふるさと、マレーの人々を知る「マレーへリテージセンター」

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西はアフリカから東はフィリピンに至るまで、海で繋がった領域に暮らす人々は、広義ながら皆マレー民族だ、とマレーへリテージセンター(MHC)のアシスタントディレクター、ノサリーン・サレイさんは言います。長い歴史を持つ彼らは、海の民として陸で暮らさなかった人々や、漁業や海上貿易に携わっていた人々が大半で、アンダマン海や南シナ海にある港町には、自然とマレー人の家族が相当数暮らし、シンガポールも、その港町の一つだったのです。

 

カンポン・グラム、「グラムの木のある集落」

Screen Shot 2015-07-28 at 4.22.34 pm19世紀初頭のシンガポールは、ジョホール王国(現マレーシア・ジョホール州)のサルタンの支配下で漁民200人ほどが住み、シンガプーラ(Singapura)と呼ばれました。1819年にスタンフォード・ラッフルズ卿が東インド会社の貿易拠点を確保するためにこの地を訪れ、その歴史が大きく変わります。ラッフルズ卿は、地の利点を素早く見抜き、即座にジョホール王朝のサルタン、フセイン・シャーと交渉、この島にイギリスの商館を建設することを承認させ、領有権を得ました。

 

その後、サルタンであるフセインのためにイスタナを建て、周囲の広大な土地をサルタンのものとしました。そしてこの地はカンポン・グラムと呼ばれ、1840年代に完成した典型的な英国コロニアル風建物の旧イスタナこそ、現在のMHCの建物です。

 

20世紀の初頭、勢力の衰えとともにサルタンはシンガポールでの公式な地位を失い、建物と土地の所有権も植民地政府に帰属し、規模も縮小されました。第二次世界大戦中の日本の占領下時代、マレー優遇政策がとられる中で、サルタンの親戚筋が多くここに移り住みました。

 

1990年代にアラブストリート界隈の再開発がすすみ、1999年4月にシンガポール政府がイスタナ・カンポングラムをマレーヘリテージセンターとして再開発することを発表。当時、サルタンの血を引く80名もの家族がここに住んでいたそうです。

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