情報が溢れる現代社会だからこそ、歴史ですらその真偽の見極めが複雑になる。「やはり、足を使ってその史実に関わった人に会いに行くのが一番です。」と、陳加昌氏は言う。ジャーナリストならではの発言だ。多数の書籍や、日本とシンガポール両国の新聞記事に陳氏の名が登場していることからもわかるように、シンガポール建国期の事情を詳しく知りたい研究者、報道に携わる日本人が最終的に辿り着くのも陳氏である。知日派ジャーナリストとして50年以上のキャリアを持ち、シンガポール建国期の歴史を、特に日系社会との関わりの上で熟知しているからだ。43回目のナショナル・デーに寄せて、アジアエックスに陳氏が語りかけた。
滞在年数がそう長くない在星日本人には、シンガポールの「ナショナル・デー」といえば、毎年8月9日の建国記念日のパレードに代表されるお祭りのイメージが強いだろう。
「ナショナル・デー」にあたり、と話を切り出すと、「1965年のあの日のことは、今でも良く覚えています。」と、陳氏が即座に答えた。現在の「ナショナル・デー」は、国の繁栄と一致団結を象徴するパレードを行う建国記念日であるが、陳氏の世代には、マレーシア連邦から分離独立をしたシンガポールの運命の日として強く胸に刻まれているのだ。植民地支配から自治を手に入れるために、マレーシア連邦の一州として合併を果たしたわずか2年後、1965年8月9日午前10時、外交筋にも知らされることなくシンガポールは分離独立することを発表した。
陳氏は、そのことをいち早く知った数少ないジャーナリストだった。兄弟のように近しく、大事な存在であったマレーシアだが、分離せざるを得ないと痛恨の涙を浮かべてテレビで分離独立を説明するリー・クアンユー元首相(現顧問相)のあの感情的な映像が思い浮かぶ。
「各国の外交官、ジャーリスト達が正午にシティホールに招集され、その事実を知ったのです。シンガポールを国家と認めた日本の対応は早く、領事館は即大使館に昇格しました。次に招集されたのが、各宗教の長たちで、リー・クアンユー元首相は、『今こそ我々は一致団結するときです。』と訴えました。宗教グループをそれぞれ尊重することで対立を避けることは重要なポイントでした。戦時中の日本軍でさえ、シンガポールに侵攻するまえに同様の措置をとりました。」と当時を回想する。
現代のシンガポール人全てが、「ナショナル・デー」を1965年のその日の出来事に思いを直結させる訳ではないという。「小学校6年生くらい迄は、事細かに当時の史実を学ぶとしても、現代生活の中でそれを振り返る事はほとんどないでしょう。
建国記念日として暦の上に毎年あるものの、若い世代は、教育、兵役、奨学金、就職等、自らの将来を考えることで精一杯だからです。その状況はどの国でも同じかもしれませんね。」と思慮深い眼差しで語った。
1986年3月15日、ホテルニューワールド倒壊惨事の現場の様子。(陳加昌氏所蔵)
「当時、ラジオ、テレビ、冷蔵庫、車、衣類迄、日々の生活には日本製品が溢れていました。日本の経済力や技術に頼らざるを得ないその裏で、戦争の傷跡というべき反日感情が常に見え隠れしていました。血債問題※1で一時大きく表面化しました。70年代以降、急激にビジネスが振興し、日系企業とローカル企業との間で衝突することもありました。資金力に物を言わせて、日本的ビジネスを突き進める日系企業のやり方は、排他的、金儲け至上主義であると批判され、一時は地元中小企業の権益を奪うものと中華総商会から苦言を呈されることもありました。当時、中近東やアジアにおいて日本赤軍によるハイジャックやテロ事件が続けて起こっていたこもあり、これ以上反日感情を煽るまいと、ビジネス上の衝突はなるべく穏便に解決すべく対応していた日系企業も多かったようです。」と陳氏は語った。
「実際、日本とシンガポールの関係が発展したのは、1980年からの地下鉄工事のプロジェクトからでしょう。1986年3月15日、築15年程の6階建てのニューワールドホテルが、地盤の問題で丸ごと倒壊するという惨事がありました。地下鉄工事のために建設機材を多数投入していた日系企業は、ブルドーザーなどの機材や技術を、がれき処理などのために提供したいと申し出ました。そのような事故処理の経験のないシンガポールでしたから、非常にありがたいことでした。私は首相のオフィスに連絡して、日系企業の意志を伝える仲介役をしたことがあります。」と述懐する。
記録によると、日本、イギリス、アイルランドの各国が協力し、生存者の救出にあたったとある。「それはほんの一例で、日本人駐在員の家族の方々も、日本人会、青年の船、博物館のボランティアグループなどを通じて、あらゆるチャリティー活動に以前から取り組んでいます。日本人の方は、そのことを声を大にしてアピールすることはないものの、シンガポールのコミュニティーは様々な形で恩恵を受けてきました。」と、両国の関係性の回復の道筋には、こつこつと長年積み重ねられた市民活動と企業努力が影にあったことを示唆した。
昭南島時代の特別市市政庁旧職員が40年ぶりに来星したニュースを「PANAタイムズ」一面に掲載。(1986年9月16日付「PANAタイムズ」)
陳氏は、パナニュース社を経営する傍ら、70、80年代の特に報道規制が厳しかったシンガポールで、日本人ジャーナリスト達の就労ビザの取得や、日系メディアがリー・クアンユー前首相とのインタビューを実現するために奔走した。東南アジアの中でシンガポールが日本語メディアや報道関連の支局などがより充実しているのも、陳氏の貢献が大きかったといっても過言ではないだろう。2000年にその長年の貢献が認められ、在外公館長表彰を日本大使館より受賞した。
陳氏と日本の関わりは、旧日本軍占領下のシンガポールで、11歳から昭南日本学園に通い、日本語を習得したことから始まる。1952年から中国語新聞の記者となり、1954年、戦後初のシンガポール人ジャーナリストとして、大阪で開催された第1回国際見本市を取材したのが最初の訪日だった。その後、73年に日本語で地域のニュースを配信するパナニュース社を設立、多い時で16名の日本人スタッフがいた。当時、日本語で手に入る現地のニュースはほぼ皆無で、希少価値が大きかったはずだ。1985年には、シンガポール初の日本語新聞「PANAタイムズ」を創刊する。数年後に廃刊するまで、シンガポールとその周辺地域で日系社会に関わるビジネスやコミュニティーのニュースを掲載した。「優秀な日本人のジャーナリストがPANAタイムス、パナニュースにいたことで、質の高いものを提供できたと思う。」と語る。
1986年に昭南島時代の特別市市政庁旧職員が40年ぶりにひっそりとシンガポール再訪をした際の記事を「PANAタイムズ」の一面に掲載した折、戦中当時を崇めるものとローカル紙上で論争を招いたこともあった。事実を伝えることを誹謗する投稿者の意図を逆に問いながら、陳氏はシンガポール人である自身がその事業に携わる意義を説いた。「当地における新聞、特に日本語新聞の出版は極めてセンシティブな事業といえます。常々その論評に置いて日本人の欠点をも指摘、シンガポーリアンとしての立場から我が国の社会、民情、国家建設に対する在留日本人の理解を助け、わずか数年間の当地での生活を彼らが懐かしくその記憶の中に留め、決して無駄にせぬ様願っております。」(『連合早報』1986年9月掲載記事を『月刊シンガポール』1986年11月号掲載より転載)。
1955年、第2回アジア映画祭で来星した岸恵子氏にインタビューする若き日の陳加昌氏。(陳加昌氏所蔵)
丁寧に収集されたスクラップブックのページをめくる陳氏は、2002年に引退した現在も、惜しみなくその貴重な経験や記憶を語ってくれる。公平な目で事実を伝える使命感溢れるジャーナリストに徹していた陳氏に、個人的には日本人への敬愛の念と、シンガポール人として「以徳報怨」を身をもって示すべく在星日本人社会に伴走してきた歴史を感じずにはいられなかった。
※1 血債問題
マレーシア連邦が成立した1963年前後に、旧日本軍に殺された華人とみられる白骨が多数みつかり、その行為に対して賠償を求める血債問題が表面化。両国政府間で賠償交渉へと発展し、66年にシンガポールを訪れた椎名悦三郎外相とリー・クアンユー元首相との間で無償援助と低利の円借款が支払われることで決着した。
陳加昌(チン・カチョン) Chin Kah Chong
1931年生まれ。大学中退後、1952年中興日報で新聞記者としてキャリアをスタート。1955年PANA NEWSに入社。その後、1956年にはインドシナ特派員、1964年からはPANA NEWS東南アジア総局長、後にPANA NEWS編集責任者兼代表者となった。
1973年世界初、海外で日本語ニュースを配信する「PANA NEWS日本語版」を発行、法人を中心とした購読会員向けに週2回配信。1986年には日系社会に関わるビジネスやコミュニティのニュースを掲載した日本語版新聞「PANAタイムズ」の発行を開始。日本の事情に精通したシンガポール・ジャーナリストの第一人者として活躍した。
また、日本語に堪能な同氏は、日本人メディア関係者のシンガポールでの身元引受人になるなど、氏に恩を受けた日本人、日系企業も少なくない。まさに日本とシンガポールの架け橋的存在である。

街中に飾られたバナーなどに書かれたナショナルデーパレード(NDP)の今年のテーマ、『Celebrating the Singapore Spirit』。中華系、マレー系、タミール系をはじめ、様々な民族が共に暮らすシンガポールで、人と人をつなぎ合わせ、困難な時も国民がみな一致団結して乗り越えるための力となり、独立以降シンガポールの発展の原動力となってきた「シンガポール・スピリット」を称えよう、という思いが込められたテーマだ。
毎年8月9日の建国記念日に開催される一大イベントがナショナルデーパレード。当日は地元シンガポールのアーティストによるパフォーマンスの ほか、シンガポール陸海空軍、警察、民間防衛隊などによるパレード、軍用ヘリコプターによる巨大シンガポール国旗の飛行ショー、空軍の戦闘機による編隊飛行、落下傘部隊によるデモンストレーションなどのほか、フローティング上でのパフォーマンス、花火の打ち上げなどが行われる。
NDPの様子はテレビで中継されるほかウェブキャストで配信され、海外からも見ることができる。
古くは14世紀の文献で「トゥマセク」の名で登場するシンガポールが、「獅子の町」を意味する「シンガプーラ」と呼ばれるようになった経緯については諸説あるが、19世紀前半までは少数の漁民と海賊が住む島に過ぎなかった。
1819年にイギリス東インド会社の書記であったラッフルズ卿が中継港建設のために上陸、名前も英語風に「シンガポール」と改められた。ラッフルズ卿により自由港として建設された新都市・シンガポールには、やがて東南アジア各地や中国、インドなどから数多くの商人たちも集まるようになり、東南アジアで重要な貿易拠点としての地位を確立していった。
長らくイギリスの植民地として保護下にあったシンガポールだったが、第2次世界大戦中には3年半ほど日本が占領、「昭南島」と名付けられていた。終戦に伴い、マレー半島とともに再びイギリスの統治下に置かれ、1955年には自治政府が成立。1963年、マレーシア連邦が成立し、シンガポールはその一州となった。しかし、マレー人優遇政策を取る連邦と中華系住民が80%を超えていたシンガポールの対立が激しくなり、連邦に追放される形でシンガポールは独立せざるを得なくなった。1965年8月9日リー・クアンユー首相(現顧問相)が独立宣言を行い、シンガポール共和国となった。
NDP当日は会場付近の道路で一部通行規制が行われます。
詳細はNDP公式サイト内の「Traffic Advisory」でご確認ください。NDP関連の様々なイベントが8月24日までの間シンガポール国内各地で開催されます。
16日には「Heart Rock Concert」と題してチャリティコンサートが行われるほか、22日と23日には域内最大の花火イベント「Singapore Fireworks Celebrations」がマリーナ・ベイ・フローティング・プラットフォームで行われます。
詳細はNDP公式サイト内の「NDP Celebration Events」でご確認ください。
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