コラム

心理カウンセラー・ダイアリー

トラウマからの脱出

Oさん(42)の長男(16)は、高層ビルが建ち並ぶ場所に行くと、動悸が激しく、手に汗をかき、このまま呼吸ができず死んでしまうのでは、と思います。このような症状がもう6年以上続いており、両親も心配していましたが、そういった場所を本人が避ける以外には何もできずにいました。しかし、シンガポールには高層ビルが建ち並ぶ場所が多くあり、避け続けるのにも限度があります。
長男のPTSD (外傷後ストレス障害)は、10歳の頃東京で、家族で買い物に出かけた際、見ず知らずの女性が、飛び降り自殺をした現場に居合わせ、目の前に人が降ってきて潰れる様を目の当たりにした事に始まっていました。
カウンセリング・プレイスではEMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作*と再処理)を行えるセラピストが常駐しています。EMDRとは、1989年に米国で発表されて以来、世界的に注目を集めており、特にPTSDに対して最も効果的と言われている治療方法です。レイプ被害者、肉体的苦痛の緩和、近親者の突然の死、事故や事件の目撃者、帰還兵、被災者、人間不信などが原因で、いつまでも悲しみや恐怖が弱くならない、前向きに考えられない、過去の出来事が一向に過去にならない人々に対し、絶大な効果を上げているということが証明されています。
EMDR当日。まずは、長男にできるだけ詳細に映像、音、臭い、色、身体感覚を含み、問題となっている症状、あるいは関連した過去の不安体験を表すイメージを選択してもらいます。同時に、そのイメージを保ちながら、彼自身に対する、今現在の否定的な思いと肯定的な感覚を認識してもらい、その主観的障害単位を測ります。続いて、セラピストは、クライエントの眼の前で指を一定の速度で動かし、眼球で追いかけてもらうことを繰り返します。眼球運動は脳を直接的に刺激し、機能的にREM睡眠に移行させ、情報処理のプロセスを活性化させます。それにより、通常は脳が記憶に働きかけ、人と話したり、考えたり、夢を見たり、日記に書いたりといった作業の中で、時間の経過とともに、肯定的な意味付けをしたり、自分の世界をより重要視したりすることで5年、10年かけ、心のどこかに落ち着かせるプロセスを、非常に短時間に進めることができます。
元来のPTSDの治療方法では、起こった出来事の全てを細かく語ることが必要とされることが多かったのに比べ、EMDRでは非常につらい体験をこと細かく語らずとも効果があること、また、催眠療法などと比べ、止めたいときにはいつの時点でも止めることができることで、クライエントにとってのストレス緩和となっています。
90分の治療後、長男は、胸元に感じる不快感も無くなり、パニックに陥ることなく、穏やかな気持ちでイメージを思い出すことができました。また、そのイメージは、既にボヤけて距離があるように変化していました。「あれは、僕のせいではなかった。もう過去のことだ」と、彼は言いました。効果が一時的でないこともEMDRの魅力です。
*脱感作(Desensitization)=過敏性を減弱させ、適応的な方向へ変容させること。

※本文に登場する人物や内容は、実際のケースをサンプルにしたフィクションです。

文=山形千尋

Counselling Place LLP心理カウンセラー(カウンセリング学修士・心理学士)
オーストラリア・カウンセリング協会正会員、シンガポール心理学会アソシエイト会員

Counselling Place

1 Scotts Road #25-10 Shaw Centre Singapore 228208

Tel:6887-3695

この記事は、シンガポールの日本語フリーペーパー「AsiaX Vol.098(2007年05月21日発行)」に掲載されたものです。
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