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経営者コラム 社長の横顔

2019年7月25日

第2回 本田宗一郎

 天才技術者として一代で本田技研を築き上げた男。ナイーブな一面も覗かせる。

 

 『俺なんか自分一人じゃ何にも出来なかったね。瀬戸物の欠片と同じだよ。やっぱり藤澤(武夫)がいてくれたから会社が大きくなれたし、(社員の)みんなが俺を支えてくれたから今日の本田技研があると思うんだよ。
 
 人間ってぇのは何度も脱皮しなければ成長出来ねぇのと同んなじで、色々と苦しい時もあったけれども、みんなが一生懸命働いてくれたお陰で脱皮する事が出来た。ありがとう ! 心底感謝するよ』
 
 今は亡き本田宗一郎さん(享年84)のこの語り口が鮮やかに脳裏に浮かぶ。亡くなる1年前のインタビュー、約2時間。時折、目頭を右手で軽く拭いながら穏やかに語った。
 
 明治39年(1906)年生まれ。静岡県の山奥を流れる天竜川支流の山村に育った。生家は村の鍛冶屋。母親の機織り収入交えても生活は貧しかった。両親の遺伝子を受け継ぐ宗一郎少年は無類の機械好き。特に「動くもの」が大好きで、10歳の頃、至極稀に村道を土煙挙げて走る4輪自動車を見つけると村人達と歓声を挙げて後を追った。『オラアも大人になったら自動車作りてぇ』。後に世界の『HONDA』を創業した本田宗一郎さんの原点だった。
 
 尋常小学校を卒業し、東京湯島の自転車店で丁稚奉公から身を興す。弟子の中で唯一のれん分けを許され、22歳で郷里浜松に『アート商会浜松支店』を設立。更に夜間大学にて学んだ。
 
 25歳の時に当時は木製の自動車のスポークを鉄製に変えて新案特許を取得。これが大ヒットして「天才技術者」として一躍その名を世界に高らしめた。
 
 そうした画期的アイデアから後に2輪車、4輪車へと事業を拡大。今日の本田技研の発展の礎を築き上げて行く。
 
 だが当人曰く『カネいじりが大の苦手』。社長時代も本社ではなく研究所で油まみれの作業服に身を包み、若い技術者達と技術開発に勤しんだ。
 
 そんな本田宗一郎社長を支えた人物が副社長の藤澤武夫さんだったのだ。その昔にひょんな出会いから意気投合した両人は長年「名コンビ」として名を成して、揃って本田技研の経営から身を引いて話題となった。
 
 後年、本田さんは藤澤さんとの間柄をこう語っている。
 
『彼は技術には不得手で経営や経理は得手だったから安心して会社を任せられた。俺は機械いじりが得手だったから、人間ってぇのは自分の得意な仕事を大事にするのが一番大事だな』
 
 得手に帆を上げては生前の本田宗一郎さんの仕事の生きざまだった。だが、創業精神が薄れて普通の大会社に成り下がった現状には、草葉の陰で憂いているに違いあるまい。今は広大な緑に包まれた富士霊園(静岡県小山町)に安らかに眠る。

経済ジャーナリスト 
小宮 和行(こみや かずゆき)

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